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本を読んでいて「認知不協和」という言葉に反応してしまった

本を読んでいて「認知不協和」という言葉に反応してしまった。言葉の意味を知り、理解し、それを自分にあてはめて考えた時に、とても恥ずかしく感じたのです。そして悔しくも感じました。

認知不協和とは、自分の考えと現実に差がある時に生まれるストレスや不快感です。例えば、自分はAさんから認められていると思っていたのに、Aさんから認められていたかったら「そんなはずはない!」と認知不協和が生まれます。

本で読んだ例では、イソップ童話の葡萄の話が紹介されていました。木になっている美味しそうな葡萄を手にすることができない背の低いキツネには、認知不協和が生まれます。そこでキツネは「あの葡萄は酸っぱいに違いない」と考えることで、食べたいという願望と食べられないという現実の差を解消します。これは我々庶民の生活の中でもよくあることだと思います。

では、この葡萄の話で模範的な回答は何かといえば、キツネが葡萄を手にすることが出来るように努力して認知不協和を解消することでしょう。

しかし努力したとしても、なかなかその努力が実をむすばないのが現実です。挫折することも多々あります。

では、努力が実を結ばず上手くいかないときにどうすればいいのかというと、やり方を変えると考えるのが一般的。学習方法だったり、練習方法だったり、日常生活の立ち振る舞いを変えてみたり。

しかし今日、新しい発見がありました。自分が気がついてない事実を見つけることも、「認知不協和」を解消する手助けになるかもしれないということです。つまり、そもそもの事実や環境やデータを疑えということです。自分のステータスをもっと客観的に正しく知れということです。

例えば、若い男性は多くの人が「どうして俺はモテないんだ?」と疑問を抱きますが、多くの場合は本人が考えているような見た目の問題ではなく、面白い話ができないことが原因です。つまり、自分は女の子を喜ばすことが出来ていないという事実に気が付いていない。それが「認知不協和」を作り出している。それはいわゆるメタ認知が欠けている状態といえるかもしれません。

でも、それってどうやったら気がつくのだろう?と考えると、本には1つのアイディアが書いてありました。それは、たくさんの人と接することです。そして人の反応から、自分を認知するという方法です。それは学術的にはフィードバックという方法だそうです。

つまり、誰かに言葉を投げかけた時に、相手の反応が予想とは違ったり芳しくなかったら、その前提となる自分の認識が間違っているかもしれないということです。「現在の政治はおかしいと思わないか?」「口が臭い人とは話したくないわ…」のように。

…なんかすごく当たり前のことを書いています。

でも、これこそが自分に足りないことですし、自分だけではわからないこと。我々内気な読者人は、本を読む人や、読書間仲間とは話ができますし、言いたいことが言えるかもしれませんが、それ以外の人と仲良くなりにくい。でも、そういうことろを克服して多くの人とコミュニケーションをとらなければいけません。

そして、時には耳が痛い真実を語ってくれる人、正しく正しい反応をしてくれる人を見つけることも大事ですね。それが、今日の結論です。

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