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あーちゃんと海辺のリス

粉っぽくて薄いベールを被ったような空気を時々海風が揺らす。
アスファルトの上ではねられたリス
その脇の土手に様子を伺っているカラス
頭上の鳶

啄まれないように亡骸を土に埋めてあげた日。
だんだんとそうした心をどこか動かされた日も白く遠くなっている。


本を持って娘に手を引かれていつもの公園に行く途中、アスファルトのあの道を通る。

ここでリスさんが車に轢かれちゃってたんだよ
あーちゃんがまだおしゃべりできないとき。それでパパはリスさんには恋人がいたんじゃないかと気になったんだ。だってもしいたらずっとリスさんのことを待つでしょ?───そんな残酷な話をまだ、この子にしてはいけない、と思い、心の中にまた言葉たちを沈めた。

僕を引っ張る柔らかくて小さな手は数ヶ月前よりもだいぶ大きくなっていることに気が付いた。
彼女の心の中にはもうすぐ見えてくるカラフルな滑り台や馬の形をした乗り物でいっぱいで、どれだけ駆け回れるか、かくれんぼを上手くできるか、彼女は楽しみにしているに違いない。

「パパとナイナイする」
「ママが来るまでね」
「ママおしごとだよ」
「そうだね、ママ偉いから来たらいっぱい褒めてあげようね」
「あーちゃんも?」
「あーちゃんも偉いね、かくれんぼ楽しみなひと?」
「はーい!」

公園に着くと晴れていた空が少し曇ってきていた。春は晴れたり曇ったりしながら、白と灰色の沈殿していた塵たちを宙に漂わせる。



きみが生まれてくることだけに頑張っていた時、
パパはきみの頭がママの中から出てくるのを見たんだ。
きみの記憶の中にはもうこの数年の真新しいことに塗り替えられて、いまもそれは次々と更新されている。淡くて優しい色とりどりな色彩で。
だからきっと確かにあったきみの頑張っていた時のことはもう覚えていないだろう。
でもパパはいまもこれからも昨日のことのように思い出せる。
はじめて力いっぱい泣いたときの声や、いまよりもずっとずっと小さな小さな手やめずらしく生まれたばかりだのに、ぱっちりとした目。
ママの穏やかな顔。

きみがこれから大きくなって、やがてこんなふうにパパの手を引っ張ってくれなくなったとして、
パパを疎ましくなったとして、
気持ちが通じなくなったとして、
パパよりもずっと素敵な誰かを見つけてしまったとして、
誰かを傷つけたり、傷ついたり、
パパには何も教えてあげたくなくなったとして、

ひとりぼっちに感じたり、
どこにも居場所がなくなったりしたとして。

それでも今日のことをパパが覚えているよ。

きみの頑張っているたくさんのことを。

パパのとなりの席はいつでもきみのために空けてある。

いつか大きくなったら、その席のことを思い出してね。

パパはきみの忘れてしまった初めての確かなことを覚えていて、それがいつもパパを励ましてくれてるんだ。

かくれんぼの楽しさ、滑り台の面白さを体いっぱいで感じて表現してくれる二歳三ヶ月のあーちゃんは、その感情をまだ言葉で伝えるには語彙が少なすぎて、ときどき、もどかしそうにしている。

「パパ洗車しないといけないからもう少ししたら帰ろう」
「ノー!」
馬にまたがり、空を駆け巡るあーちゃん。
洗車なんて本当は言い訳かもしれない。
本だって読みたいけど公園では目が離せないから無理に決まってる。
はやく飽きてくれないかなとか邪な僕の思いからの言葉だ。
帰ろうという言葉の意味はあーちゃんにとっては楽しみを中断する諦めるということに等しい。

「パパ、リスさん!」
「どこ?」

電線をつたい走り抜けるリスの親子が公園の奥に見えた。

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