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『笑い』ベルクソン

ベルクソンの『笑い』を気が向いた時に読んでいた。
笑いについては、過去何度か考察していた。
きっかけはいくつかある。
・『壁』(サルトル著)
終盤の哄笑

・『青空』(バタイユ著)
黒のイロニーでの笑い

・『無知』『裏切られた遺言』『無意味の祝祭』(クンデラ著)

これら共通しているのは二項対立的なものへのおかしみと、そのおかしみがベルクソンの指摘する「緊張の緩み」や「こわばり」の反射としての笑いである。

ベルクソンの『笑い』についての洞察が前述した著者らの《笑い》へのこだわりの源流のように感じられる。

ベルクソンが本論考のようなモリエールの批評のような文章において、「喜劇的なものだけを取り上げた」というのは、わかる気がする。
悲劇は同時に喜劇でもあるのだ。
「緊張の緩み」と「ぎこちなさ」は無意味さと戯れへと引きずられ、そこにこそ世界の深淵が横たわる。 これは偶発的事象にすぎない何かにぎこちなさを知覚し、無意味さと戯れがトリガーとなって世界の深淵へと向かってゆくとも捉えられる。

サルトル〜バタイユ、クンデラらとベルクソンを重ねて見ると、笑いの一連の動作を転倒して見ているようだ。
二項対立させたがる者は権威的で、彼らは一様に滑稽な様子≒おかしみを露呈してもいることが多い。

こうして僕もニヒリズムに陥りながら笑い、心の底から世界を嘲りたいのにしがみつく春の世界。

デリカシーと謙虚さを追求できず、そうしようとすると笑うことができない体質なのは病気なんだろうか。
いくつもの鏡像に笑われるニヒリズムの塊───僕である。

*壁について書いた記事が埋もれて探せないのであとで気が向いたら追加します。

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