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手紙──優しい夕べに

彼女が「詩を作ったよ」と言ってシューマンの幻想小曲『夕べに』を添えて詩を送ってきてくれた。

People coming and going,
The smell of sweat
The night sky strewn with lonely jewels,
Which one is your star?
Summer is a castle of sand filled with deception and hypocrisy.
A girl runs barefoot through the meadow.
I realize that everything is only an illusion, by the ears of wheat and red soil swaying in the wind.
A sand castle at the end of a red road.

(僕の意訳)
行き交うひとびと、
汗の匂い
夜空に散りばめられた宝石たち、
どれがあなたの星なのか?
夏は欺瞞と偽善に満ちた砂の城。
裸足のまま少女が牧草を駆ける。
風に揺れる麦の穂が、すべては幻想でしかないことを告げる。
赤い土のその先に見える砂の城。

Summer
妻の詩

九月までの単身赴任がまた北陸で始まった七月、出張先の研究室の扉を閉めて空調が効いてひんやりと静まり返った夜の薄暗い廊下を歩きエレベーターに乗った。

いつも八階から三階までエレベーターを利用したあと、非常階段を使う。
非常階段に繋がる少し重い扉を開けると、冷たい空間から、むわっとした熱気に包まれた空間へ吸い込まれる。どうしてだか、僕は──安堵が満ちていく──その瞬間がとても好きだ。

建物の外に出ると、夏特有の音と風が見える。誰かの声と肌の温度をその中に探すかのようにしてしばらく宙を仰いだ。

感情の起伏がすぐに顔に出て、ころころと変わる表情と表現の豊かさ、素直ですぐに他人を信じる無邪気で勝手に傷付いて天真爛漫、瞳の中にたくさんの輝きを持ち続けるところ───僕は家族が誰かに理解されず傷付いたりあるいは傷付けたり、無碍に心を扱われたり、利用されたりしないかとても心配になるときがある。

おとなになると、本音と建前を使い分ける場面が多い──そうしないと、例えば、つい最近の僕と知人とのことのようになってしまう──それがおとなならではの他人を思いやることだと思ってきた。

けれども、妻は「そんなものは思いやりなんかじゃない」と信じている。あるとき、僕が一年かそこらやり取りをしていたひとに本音を吐露したところすれ違いから不穏な空気になった。そのひととはぷつりと切れた。
ことの顛末を妻に話すと、

「相手に本当のことを言って傷付けたり、間違えたら、『ごめんね』って言い合ってお互いを許せばいいじゃない?意地悪で頑固なひとなのね。大体あなたの表面的なことにしか興味なかったり、薄っぺらい都合の良い話だけをずっとそのひとは話し合っていたかったんじゃない?」

と言って僕を励ましながらも笑っていた。確かに、そうだと思う。でも《当たり障りなく》《薄っぺらい都合の良い話》で済ませるのが《普通》の社会だろう。じゃないと、余計な亀裂や軋轢を生むだけだ。

昔、妻に「優しくして良いひととダメなひとは線引きを心の中でしないと傷付くだけだよ」とも言った僕は、心の何処かで、僕自身も、線引きが苦手なほうだと自覚していたことがあった。けれども、「優しくありたい」、と言いながら耳障りなものや目障りなものはシャットアウトしたりもする。過ちを犯したときに、赦せるかどうかは置いておいて、過ちだと認識するかどうか、認識したあと、互いに話し合えるかどうかでその後の関係性も変わる。話し合えなければ、彼女の言う通りどちらかが、美しい表面だけを観ていたかっただけなのであろう。人間なんて根本的に油断すれば醜さを露呈するものだ。そして、それは歳とともに硬直化しがちかもしれない。だから極力意識して、しなやかでいたい。

幸い、妻は僕の醜さを面白がってくれることがほとんどだった。
それでも、時々、僕のデリカシーのなさで傷付けたりしているかもしれない。
不器用な凸凹コンビの僕と妻。
ごめんね。いつも、ありがとう。

───とりとめもなく、そのようなことを思い返しながら、車のエンジンをかけたまま、しばらく、短い詩を眺めていた。

単身赴任が終わったら、シューマンの幻想小曲を教えてね。

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