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とりとめのないこと2023/02/11-13

ここ数日、ある方に教えていただいた坂口ふみさんの本を家族にも教えてあげたくて、じっくり読んでいる。
ちょうど、エマニュエル・トッドさんの新刊を読み進めていたり、トッドさんの過去の論を読み返してみたりしていたせいか、そこと繋がる。

ヨーロッパとヨーロッパ周縁の歴史とそこに横たわる宗教、そして家族構造といまのヨーロッパとその周縁、ひいては日本とその周縁。

日本とその周縁、というよりも、中国とその周縁とした方がいいのかもしれない、と思わなくもない。

日本社会は、臭いものには蓋的に、「宗教」を異様なほどに避ける傾向に見える。
noteでも、「宗教?政治?勉強不足だから時間をかけてこれから追々……」的にあまりこの話題をしっかりと真正面に捉えて、じぶんと周り、社会、といったスタンスでの文章を見かけない。

「SNSでは、それがマナー」なのだろうか?

ならば、何のために読み書きしているのだろうか。

「とっつきやすいジャンルを哲学的にあるいはエッセイ的に寄せて都合よく書く、読みやすいもの」

ばかりが目につくのは何もnoteだけではなく、昨今の新書や小説でもそうだと、個人的に感じている。

貪欲に学び取っていく過程で自己と自己の周縁と社会と、もっと遠い外国とを繋ぎ合わせられた瞬間こそ、じぶんで考え抜くための基盤が形成されていく、そんなふうに思う。

この流れは、じぶんの土地、領土、周縁、という流れであり、ヨーロッパやその周縁で起きていることとも通じると思う。

昨年読んだラリュエルさんの『ファシズムとロシア』という本がある。「誰がファシストなのかを決める現在の争いは、ヨーロッパの将来を定義する闘いであり、分断線を引くキーとなる問題は、ロシアの包摂か排除か、にあるのである」と著者ラリュエルさんは締めくくる。 反リベラリズムの潮流は、ロシアだけでなく各国そして日本も内に抱えている問題でもある。そこに横たえる宗教との関係を見逃してはならないと、再実感した。
昨今、日本でもカルト集団の件がある。
ここ最近、ニュースは防衛関連に注力し、ぱたりとこの問題のニュースが鳴り止んだのは、どことなくきな臭いものを感じるのは考え過ぎなのだろうか。

勉強不足を盾に起きている事実に目を背けることは愚かであり、目の前に広がる事実を見逃すときもあるかもしれない。
何かを「書く」というのは自己表現を何のためにするのか?を問われることでもある。

表現対象を問わず、高度自在で正確な目(社会とじぶんを結びつけ社会に開いたスタンスを確保する)と素直な心とじぶんで考え抜く力(≒ 客観的、論理的思考に立脚した洞察力)、それと基礎があってこそ、ようやく少しずつ表現できるようになるのかもしれない。
古典から近現代の哲学文学や歴史と宗教と政治を貪欲に知ることによって、基礎が積み上げられてゆく。基礎なくしては表現できない。
詩人、ランボーなど、よほどの天賦に恵まれたひと以外。
そう思うのは僕だけだろうか?
後世まで読み継がれている文学はほとんど作家たちの中期〜晩年によるものでもあり、ほぼ、社会に開いてもいる。
彼らも地道に積み重ね実践して書けたものだろう。

書いてある文章というのは書いているひとそのものを表すとも思う。

読むことが愛することで、書くことが生きることだとして、社会に開き続けていたい、強くそう思う。

民族、国家や宗教という人間の作った幻想を超えて博愛に繋がるような言葉あるいは魂を込められたエクリチュールがたまに何かの痕跡のように残っていることもある。聖書もそのひとつなのかもしれない。そうしたものたちのフラグメントをかき集めて、身近なひとたちへの還元をしつつ、学びを貪欲に切磋琢磨して、僕自身も成長してゆきたい。

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