見出し画像

とりとめのないこと2023/04/08

三秒にしてかれが手術は、ハヤ其佳境に進みつつ、メス骨に達すと覚しき時、「あ。」と深刻なる声を絞りて、二十日以来寝返りさえも得せずと聞きたる、夫人は俄然器械の如く、其半身を跳起きつつ、刀取れる高峰が右手の腕に両手を確と取縋りぬ。「痛みますか。」「否、貴下だから、貴下だから。」  
 恁言懸かくいいかけて伯爵夫人は、がっくりと仰向きつつ、凄冷極せいれいきわまり無き最後のまなこに、国手*をじっとみまもりて、「でも、貴下は、貴下は、私を知りますまい!」  謂ふ時晩し、高峰が手にせる刀に片手を添えて、乳の下深く搔切りぬ。医学士は真蒼になりて戦きつつ、「忘れません。」  
 其声、其呼吸、其姿、其声、其呼吸、其姿。伯爵夫人は嬉しげに、いとあどけなき微笑を含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ見えし、唇の色変りたり。  
 其時の二人がさまあだかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきが如くなりし。

*すぐれた医師
『外科室』泉鏡花

身分違いの純愛───泉鏡花の『外科室』を再読していた。

聴覚に訴える幻想と耽美の世界が広がる短い文章、そして非常に研ぎ澄まされた言葉運び。これらが鏡花の文学で僕を魅了してやまない。

美しいものを美しく昇華させ、あらゆる情景を耳に美しく響かせてくれる。そのため、鏡花を愛でるかのように字を追っていると、深い霧の朝露が残る中で野の花に舞う蝶を追いかけているかのような心持ちになる。空気は密度高く湿り気が強い。それなのに、とても自由でもある。

鏡花は言葉そのものとそれを書き記す漢字そのものに強いこだわりがある作家だ。
愛でるようにして読む───鏡花の研ぎ澄まされた感覚と考え抜かれたエクリチュールが音に変わるのだ。

それ故に僕は翻訳版とかいうものを出すこと自体、鏡花文学への冒涜にしか思えず、とても嫌である。

このことは何度も何度も繰り返して書いている。

言葉のひとつひとつを大事にしていることがよく伝わってくる作家でもあろうか。

言葉に対しての想いは大なり小なりひとそれぞれ持っているかもしれない。

僕はこの数年の言葉の激しい変化に時折ついてゆけず疲れてしまう時がある。

心に響く、心の琴線に触れる
ではなく、「刺さる」、という表現が受け入れ難い。
また、「ワンオペ」、「ジェンダー」、「フェミニズム」含む「フェミ」という言葉。

刺さる

という極端で非常にネガティブな表現がなぜか安易に肯定的な意味合いで使われる。

鋭利なもので憎しみを込めて刺す

そうした意味合いの方が個人的に強く、感性の何にどうしてそんなに?となるのだ。

これは前から言ってもいることだけれど。

また、ワンオペ含むジェンダーやフェミについては区別化を加速させ特別視するよう扇動しより一層の差別と不寛容と全体主義へ向かっている社会風潮を感じてしまう。

ジェンダー平等

SDGs 17項目の第5番目に掲げられてもいる。
しかしながら、パラドックス的にいかにも不寛容で曖昧でご都合主義に思えてならない。
老若男女問わず個の尊厳と教育のエンパワーメントは公平にあるべきであろう。

生物学的性差も個の大切な特徴である。
体つきや顔立ちがそれぞれ違い、尊重されるべきであり、当然ながら心理的性もそことは異なる個性のひとつとして寛容しあうことが大切に思う。

たとえば……

身体的に力があるかどうか、男女問わずそんなものはひとそれぞれ違うのだ。だから力があるひとが力のないひとを助けてあげられるときに助けてあげればよいではなかろうか。
そこに生物学的性差は関与するだろうか?

だから、ジェンダーという言葉の曖昧性がとても怪しげに思えてくることがある。

なぜ、弱きを助け強きを挫くではいけないのか。そこに男らしさ女らしさといった社会的な性自認や男なら女ならだとかいう生物学的性差は関与するのだろうか?

話を鏡花に戻そう。
僕は「い」抜きが目立つため、もっと細心の注意を払って書かねばならない。
それでもやはり、前述のいくつかの語彙が散見すると心が苦しくなるときがなぜだか増えた。

鏡花の外科室では、一瞬の純愛のふたりだけの空間の緊張感の高まりを「掻き切る」という表現で見事に伝えている。

刺すではなく、掻き切る。

真に美しい精神と言葉を大切にしたい。
言葉でひとは考える。
「美しい文章は嫌いだ」といった類いの文言を目にした。そのようなことがなぜ言えるのか僕には理解し難く、想いがさまざまに飛んだ。

研ぎ澄まされた言葉運びをせねば、言葉は陳腐化する。
僕は陳腐で泥水の穢らわしい中であれ美しいものは美しいと見定める審美眼を身に付けたい。

鏡花の天性の言葉のセンスに嫉妬する。

いただいたサポート費用は散文を書く活動費用(本の購入)やビール代にさせていただきます。