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優しい亀

裸足で草むらを走っていた。
地平線の向こうのそのまた向こうに見えるオレンジのような太陽を手にすると、妻と娘の影法師が長く伸びてきて、振り返るとベッドの脇に彼女たちが僕を見つめていた。僕の背中にできた、皮膚の凸凹は日に日に硬くなり、この数年でその速度は加速度的に増した。やがて気付けば刺々しいものもできてきていた。病気なのだろう。
妻が、この子を内科へ連れて行ったのよ。あなたのせいでもあるのよ、つぎは二週間後なの。という。それで僕は娘の顔を見つめ返して、ごめんね、と言うと、娘がはにかみながら、うなずき僕は《いま》を離したくない、と思って目をつぶった気がする。《過去》からは僕を問い詰めない。僕が《過去》を問い詰めるだけだ。あるいは逆かもしれない───暗闇がひかりに追い抜かれていく。まぶたの奥のふたりがだんだんとぼやけていき、僕は、目を開けたらきっとこの《現実》が存在しないものへと変わってしまい、《夢》になってしまうのだ、これが《夢》だと《現実》の中で認識するのだろう、と夢のなかで考えていた。

甲羅のような硬い凸凹───むかし、亀を何匹か飼っていた。
僕のエゴで勝手に連れて帰ってきた。
鳥、蛇やたぬきなどが亀の卵やちいさな育ちきっていないものを連れてってしまうのを何度か目にして、見かけるたんびに卵やちいさな生まれたての亀たちを連れて帰って来た。

「亀」と呼ぶと僕の足もとに一生懸命になってやってくる。
ひとりを撫でてやると他の子達がやきもちを妬くかのようにして僕の手を探る。

夏の前のきゅうりをあげたり、ちいさな野苺のようなぐみをあげたり、春から遠ざかった萎びたキャベツをあげて、「亀」と呼んで僕は亀の友だちに孤独を分かち合ってもらった。

夕暮れ時、誰かの声がするか確かめながら。
誰からも呼ばれないことを知りながら。

優しい亀。大きくなって池のほとりにみんなを返したとき、僕はさようならをしながら泣いた。

思うことを思い切り、おおきなひとには言っちゃいけない。
硬くなる甲羅は視界を遮り、だんだんと周りが見えなくなって、じぶんすら見えないようになっていく。
言葉じりだけを捉え否定しかできない。
都合良く扱い全体を見ない。
そんなひとたちに何かを叫んでも都合のいい部分だけを切り取られる。

全てを包括的に見てくれる、あの日のちいさな亀たちのように、純粋で素朴に受け止めるひとというのは限られている。

甲羅はだんだんと硬くなる。
僕も甲羅をだんだんと硬くした。

亀の匂い
夏の草むら
優しくすることに夢中になっていた頃

僕はきっと優しくできない病気なのだろう。

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