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『箱男』 安部公房

はじめに

ひとり安部公房祭 第五回『箱男 』
1973年作
何度目かの再読になる。

脚フェチの箱男はこの物語の中で箱男とされていることを知っているメタフィクション系小説。

誰でもないということを箱男は獲得できる。誰でもないということはあらゆる人間でもあり得ることと表裏一体である、匿名性、それは登録を拒否することでもあり、習慣を重んじる一般には攻撃的感情を抱かせる。デモクラシーの原理は徹底していけば匿名性に帰着し全員が箱男、贋物に到達し非常に厳しいものであり、国家というカタチが崩壊していく、箱男は義務と権利を自ら放棄したデモクラシーの極限の象徴

安部公房自身が講演でこのようなことを語っていたと思う。

時代背景

時代背景的には三島由紀夫が自決してから3年後。
日本では学生運動がひとつの社会風潮化しはじめて、高度経済成長期終盤となりオイルショックがあったりと、世界経済的にも大きな混乱をきたしたり、ベトナム戦争の最中の時期だろう。

箱を脱ぎ捨てたいけれど、安定した居場所を見つけてからではなければ、脱ぎ捨てきれない。

結局はラベリングの機能に引きずり込まれる

そこで、考えてみてほしいのだ。いったい誰が、箱男ではなかったのか。誰が、箱男になりそこなったのか。
『箱男』安部公房 新潮文庫 p192

個と集団の自己欺瞞とそこからの脱却

小説を読み進めると伝わってくるのは箱男の自己欺瞞だろう。箱男は箱男であること、箱男を演じていることに欺瞞を覚える。

前回までの4作品は存在論的小説群だったが、箱男は社会にアンガジェしきれない一庶民の象徴であり、実存小説のように思える。

また、匿名性について言えば、今は割と皆、箱男状態で、この投稿だって箱の内側の落書きである。

現に姿を消した彼女だって、この迷路の何処かにひそんでいることだけは確かなのだ。べつに逃げ去ったわけではなく、ぼくの居場所を見つけ出せずにいるだけのことだ。
中略
救急車のサイレンが聞こえてきた
『箱男』安部公房 新潮文庫 p237-238 

『箱男』と『密会 』は個人的に連作に思える。
このサイレンは密会の冒頭と重なっていく。

競争社会での予測可能な立場の選択。
予測を拒否、例えば自殺。
文学や芸術は予測の拒否への願望。

「言葉が有効なのは、いずれ相手を他人と識別できる、2.5メートルの線までのことである。」
『箱男』安部公房 新潮文庫 p229

異国でしかも閉鎖的空間に一時的にでも飛び込んでいる今の僕にとっては、この一文が心の湖面に波紋を広げていく。

おわりに

《即自》─《対自》─《他有化》─《即/対自》の一連の反復を箱男では描かれてもいる。
こうした実践的弁証法的統一性──平たく言うなら世の中そのもの──は自己統合への努力そのものによってその統一性を否定するように集団を決定づけるものであり、これこそまさしく、僕らが他のところで実存と呼んでいるもの。

ラベリングを拒否しながらも義務も権利もないまま居場所を求めて彷徨う箱男は贋の自由と不安まみれで街に飛び込む。

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