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妄想力の問題 ナイチンゲールと金魚の書簡

 朝から妻のシモーヌ仮称の機嫌は悪かった。些細なことで俺と怒鳴り合いの喧嘩になりながらも、弁当を押し付けて、もう帰って来なくていい、あんたなんかと一緒にならなきゃよかった、と言って寝室に戻って行った。ドアの向こうで泣いてる声がしたけれど、放っておいた。小雨の降る中、俺はひとりで階段巾木を造作し続けた。見習いの悠太仮称は今日明日と通う夜間高校の試験のため休みだった。久しぶりにひとりで黙々と仕事するのは半年以上ぶりだ。休憩することも昼にシモーヌの弁当を食うことも忘れて、ただひたすら地味な作業をしていた。夕方4時半を告げるカラスの市内放送に我にかえり、トラックの中で今更ながらに弁当を食い始めると、フロントガラスに小さな鳥が止まった。俺はワイパーを動かして、鳥を追い払おうとした。翼を怪我しているらしく、鳥は後ずさりするだけで、飛び立つこともしなかった。俺は鳥を雨に濡らさぬよう少しだけ助手席に連れてきてやった。鳥の瞳を見つめると鳥も俺を見つめ返し、逃げようとしなかった。どこかで飼われていたのかもしれない。傷を追ったその鳥は城のようなカゴから出てきたものの、外の世界では充分生きるには過酷なように見えた。黄色い腐りかけた落ち葉が一枚その時助手席に落ちた。
鳥はやがて俺の為に俺の詩を歌った。

アフロディーテとアポロンがわたしの誕生を祝福した
2人はわたしを湖面のハスの葉に寝かせ、わたしはいつしか、湖面に映るわたしを見つめ続けた
わたしはやがて水面に欲望という名の永遠の城を建てた
わたしの欲望は果てしない
欲望の赴くままに生き、やがて眼前の壁をこの目で見てはじめてわたしはわたしの欲深さによって鎖に繋がれていることを知る
わたしは欲望のままに愛を蔑ろにし、やがて誰からも愛されなくなった醜い悪臭を放つ塵となってたことを知る
必死にわたしは誰かにこの尽きることのない欲望を満たして、と叫ぶ
もはや声とはならず、それはただ遠くの海の上を吹く風の音でしかなかった
わたしは生きたことがなく欲望に絡め取られて死の中を吹く風でしかなく
わたしを知るものは誰もいない
わたしに気付くものはモルト以外存在しなかった
わたしは存在することを諦めた
何故ならわたしの欲望はあまりにわたしを破壊しつくしていたからだった
わたしは湖の水面に映る城の中
鎖に自ら縛られる
ハスの葉に片翼の傷ついた小鳥が休む
わたしはナイチンゲールを愛そうと鎖を引きずるがナイチンゲールは抵抗した
わたしはナイチンゲールの翼から羽をむしりとり飛べなくなった彼女を鎖でわたしと繋ぎ湖上の城に閉じ込めた

これがあなたなのよ、そう言って鳥は俺を憐れんだ。俺は鳥を優しく両手で包みながらそれからシモーヌに電話した。俺はこんなんじゃない、俺はヌルヌルした赤い血まみれの両手を頭に巻いていたタオルで拭きながら、電話に出たシモーヌに怒鳴り続けた。幻想の城なんかに自らを繋げる妄想野郎でもないし、俺は鎖でなんか俺を繋いでない、誰も繋いでない、俺は自由だ、何でそんな風なことを平気で言えるんだ?電話の向こう側で、どうして気狂いみたいなフリするのよ、どうしてそんなことできたのよ、とシモーヌが叫び終わると頭の奥で翼をバタつかせるような音がした。ごめん、お願いだから何処にも行かないで、と俺が謝ると、シモーヌは窓の外に弱々しく羽ばたき、空高く舞い上がった。両翼を水平に広げたままのとんびがナイチンゲールに向かって突進し、俺はそのままナイチンゲールが少しだけ抵抗するのをただ見つめていた。とんびはナイチンゲールを掴んだまま薄紫の西の空へと消えて行った。俺はラジオをかける。Aria da capoをグールドが弾いている。目を閉じてナイチンゲールのことを考えないようにした。

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