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『白い屋形船』  読書会 #6 (2024.5.22)

爽やかな晴天に恵まれた五月の昼下がり。鳥たちの戯れを聞きながら、お庭で読書会を開いた。いつもながら贅沢な時間だと思う。今回も5人で開催。せっかくなので、みなさんの紹介をしてみたい。


読書会を一緒に主催するあずさんは、わたしと同年代。南丹市に移り住んだ時期もほぼ同じで、わたしから読書会をしませんかとお誘いした。あずさんなしでは、始めることも続けることもできていない。

ひろしさんは、3回目の参加。隣谷で農家民宿「とりこと舎」を営んでいる。野菜や米をつくり、ヤギやニワトリと暮らし、家の改修もなんだって労を惜しまず自分たちの手でやる、里山暮らしの先輩である。

大阪から参加するけんさくさんも、今回が3回目になる。彼は、ジェリー・ロペスを愛するサーファーで読書家。いまはプーシキン(あれ?プルーストだったかな?)を読んでいるという。環境問題に取り組む活動で、ときどき京都に来たときに九にも寄ってくれていた。

まひとさんは書店九の店主。普段はグラフィックデザインの仕事をやっているが、季節がくると田や山に出て、草を刈り、泥をさらい、薪の世話をする。

わたしこと木谷恵も書店九の店主。この記事を主に書いている。よろしくお願いします。


さて〈今回の本〉は、上林暁の『白い屋形船』。


夏葉社から出る本や、百万遍にある古書善行堂の山本善行さんが敬愛するというので知るひとがいるかもしれないが、わたしたちは読んだことがなかった。

「白い屋形船」は1963年(昭和38年)に『新潮』で発表された。上林はその前年、家の近くの銭湯で脳出血で倒れ、右半身と下半身不随、言語障害となった。だからこの作品は、妹の助けによって書かれている。解説を読むと、どんなふうに書かれたかがわかる。

(妹の睦子さんは:筆者注)まず、右手の使えない上林暁が仰臥のまま左手で書いた字を判読して清書する。次には点検や推敲だが、睦子さんしか聞き分けられない指示の言葉を聞き分けて、直してゆく苦労はたいへんなものであったらしい。

『白い屋形船・ブロンズの首』(講談社)P280



本作には、まさにその脳出血で倒れ、生死の境をさまよった体験が描かれている。


生きているのか 死んでいるのか


読書会の前日、わたしとまひとさんとの間で小さな論争があった。
まひとさんはこの話を死んだあとの話と思って読んでいた。もちろん臨死体験の話かとも思ったけど、書かれた文章をそのまま受け取るなら、主人公は死んでるよな?と。なぜなら冒頭「あれは本当に死と云うものだったかしら」で始まり、そのあとも、死んだ父親のことを「私の父が、私が死んだと知って、頓死したと云う噂を聞いた」と続く。ほかにも、主人公が死んでいるに違いないと思える箇所がいくつもあったからだ。
たしかに死んでいると言われるとそんな気もしてくる。でもわたしは臨死体験の話とばかり思い、疑うこともしなかった。死んだあとの話となれば、ずいぶんと話が違ってくる。しかしそんな気もしてきて、そのあと改めて4、5回読み直してみたのだが、細部を読めば読むほどわからなくなっていった。


読書会当日。
まひとさん以外の全員が、臨死体験、あるいは夢の話と思って読んだと言った。と言っても、けんさくさんも「はじめに生死の境をパンっとうやむやにされた感じ」と言った。
作者に聞かなければ、死んだ話か生きている話か、ほんとうのところはわからない。だがそれでも、作者のことを多少なりとも知っていれば、作者が脳出血で倒れたことを想起するはずだ。さらに上林が、私小説を書くひとと位置付けられていることからしても、自身の体験を描いた小説だと考える気がする。

わたしたちは常々、純粋にただその作品を読んでいるのではなく、作者の情報、時代背景、書かれた状況など、さまざまな情報を頭に入れながら読んでいる。本の帯や背表紙にはさまざまな情報が書かれ、本屋で手にしたその瞬間から、作者や作品のことが知れてしまう。ネットで買う場合も同じだ。作者や作品に関する情報を一切もたず、作品にあたれることなどほとんどないのだ。
だから、今回、作者のことをほとんど知らず、調べることもなかったまひとさんは、純粋にその作品と出会うことができたといえる。そしてその結果、死んだ話と受け取った。
前情報「あり」と「なし」とで読み方が変わり、違う内容を受け取れたということ自体が、この作品のおもしろさの一つではないかとの話になった。


辻褄があわない世界を描く


夢の話にありがちな、ふわふわとした話が続く。しかしふと、現実の話が差し込まれる。現実と、そうでない世界とが曖昧になる。両者をつなぐ「継ぎ目」のようなものがみえない。
それは、いつ眠ったのかその境界がわからない入眠体験とどこか似ている。わたしたちは知らず知らずに夢を見て、あとから考えると支離滅裂な出来事や歪んだ時空間を疑うことなく体験する。そうしたことが描かれているようだった。
だからそのまま読むと、なにこれ?となるし、いまいちよくわからない。ひろしさんとまひとさんは、とくにそうした印象を受けたようだった。

しかし、「混乱をそのまま出したらこうはならないはず」とあずさんは言う。混乱をそのまま出したとしたら(それはそれで読んでみたい気もするが)、もっと読めない文章になっていると思うから、と。
整合性がとれないというが、作者は推敲を重ねたうえで書いている。先述したように、現実とそうでない世界との境は曖昧だが、そこには違和感がない。
こうした力を「編集力」とでもいうのかな?とあずさん。なるほど。ひろしさんも、こんなふうに書くには非常な文章力がいると思うと言った。


ひとの夢の話を聞くのが、おもしろいひととそうでないひと


ひとの夢の話をどんなふうに聞くか。夢の話に対する感じ方と、本作へのあたり方がどうも似ているのでは?という話になった。

おもしろいというひと、まったくおもしろくないというひと、それが正夢だったりオチがあるならまだ聞けるというひと。それぞれだ。
夢の話をおもしろく感じられないのは、夢があまりにも自由だから。基本的にはオチもない。だからなに?と思う。本作もそれと同じで、臨死体験の話をされてもなぁ……というわけだ。

しかし、けんさくさんが注目したのは描写の妙さだった。
黒い雀、褐色の牡丹雪、世話をする小母さんの顔に書かれた白い十字……そこに幻想的な風景が見え、おもしろさを感じたという。

わたしも気になったことがある。主人公が何度も泣くことだ。
はじめのうち、主人公は、事あるごとに泣いていた。自分が救急車で運ばれたと知っては泣き、自分の痩せた脛と父親の脛とを比べては泣き、それからも、自分の横たわる姿と父の寝る仕草が似ているとか、死んだら孫の顔を見られなかったと言ってはすすり泣く。ちょっと泣きすぎではないか。泣く描写がこれほど多い理由がよくわからなかった。
しかしあずさんが、何度も泣くのを「マンガ的」と表現した。つげ義春のマンガを連想したらしい。すぐに泣くのはギャグみたいで、だけど主人公はその場を必死で生きている。たしかに、滑稽でシュールなつげ義春的世界だ。

ただ、泣くのは序盤だけで、徐々に泣かなくなる。けんさくさんが言うには、途中で螺旋階段をあがっていく場面が出てくるのだが、そのあたりからいっそう幻想的になり、終盤「人間臭い」という表現が出てくるあたりから、現実の世界へ戻ってくるように思われた。

ふわふわとした夢の話のようでいて、細部は具体的。しかもその細部をよく読むと、この世のものではない気もするが、主人公は確かにそれを見て、体験している。

昨日見た夢の話をするとき、つい事の運びやそのときの感情を強調したくなるが、もしも細部を覚えていて、それをやや達観して伝えられれば、魅惑的で妖美な世界が表現できるかもしれない。それができたら、夢の話はもう少しおもしろくできるかもしれない。


視覚的作品


上で書いてきたように、本作は臨死体験なのか病床で見た夢なのか、細部まで奇天烈でえも言われぬ世界は現実ではない。言ってしまえば、主人公の脳内の話である。

もしもそれを絵にしたら、抽象画になるのでは?という話にもなる。物の多角的な見方、時空の歪み……キュビズムの絵というわけだ。
本作がよくわからないというのは、抽象画をどう見たらいいかわからないと言ってるのと同じかもしれないという意見も出る。
いや違う。そもそも絵にたとえるなら、抽象画ではなく、具体的な絵ではないか。描く対象が「臨死」や「夢」だからわかりにくく感じるのであって、あくまでもそれらを具現化しようとしているのだから、抽象画ではないのではないか、と。
たしかに。

みんなが絵にたとえたのは、視覚的イメージが喚起されたからかもしれない。黒い雀、褐色の牡丹雪といった幻想的な物、マンガ的世界と捉えられた話も、視覚的イメージにつながっていく。

しかし絵にとどまらず、詩に近いのでは?という意見も出た。
文字による表現世界と絵によるそれとの間というか、文字は文字でも、どちらかというと視覚イメージに近い詩という表現世界。抽象と具体の間ともいえるか。おそらくこうしたことは専門的な議論があるのだろうと思う。


読み方の多様さ


さいごに。絵にしても、詩にしても、あるいは今回は出てこなかった写真にしても、それが何を描き、写し、ひとに見せているかという話は、読書会の最後の話題にしては壮大だったかもしれない。
このときはそれ以上広げられなかったが、作品に対して作者が考えることと、読者や鑑賞者がそこに何を見出すかは、ほとんどイコールではない。
でも、そこに生じたズレが大きければ大きいほど、その作品の大きさというか、作品そのものが、作者や時代背景といった諸々の文脈から離れ、独立しているように感じられる。
読書会でも、ひとによって出てくる感想がまったく違うときは、その作品のおもしろさをより強く感じるときだ。それだけその作品から受け取ったものが多様にあるということだから。今回の読書会も、そんなことを強く感じる回だった。


木谷恵(九店主/読書会主催)+ 佐野梓(読書会主催)


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