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『JR上野駅公園口』  読書会 #4 (2024.1.13)

今回は5人で読書会。
窓の外に雪がちらつく寒い日に、店の2階の畳の部屋でちゃぶ台を囲み、2時間と少し。ゆっくりと、思い思いに、話しあいました。

〈今回の本〉は、柳美里『JR上野駅公園口』(河出書房新社、2017)。


参加したのは、ひろしさん(初参加)、けんさくさん(二度目の参加)、あずさん(読書会主催)、まひとさん(九店主)、わたし(読書会主催、九店主)の5人です。


主人公の男をめぐって


息子、妻に先立たれ、ホームレス生活を自ら選んだ主人公の男をめぐって、どうしてそんな生き方になるのか「わかる」「わからない」にわたしたちは大きく分かれた。


何度も「わかる」と言い、わかるどころか「納得できる」と言ったひろしさんは、「俺も半歩ずつこっちへ踏み出してたら、あるいは踏み出してなかったら、こうなる可能性は十分にあったと思うから」と言った。


ひろしさんのことばには切実さがあった。けれども、「わからない」と言うほうにも同じく切実さがあると思った。


「孫娘に心配されて一緒に暮らしてたのに、どうしてそれを捨ててしまったのだと思いますか。若い人に迷惑をかけてはいけないからとあったけど、迷惑をかけるのが申し訳ないっていうより、迷惑をかける自分が許せないからじゃないかって思ったんです。そこに男の人の運の悪さみたいなのが繋がっていくような気がしました」

「迷惑をかける自分が許せない」ことと、「男の人の運の悪さ」がつながっているとあずさんは言った。

「あとやっぱり、自分が娘だからというのが大きいのかもしれないですけど、息子と妻に対する思いの強さに対して、娘との縁の薄さが……亡くなったのが息子でなく娘だったら、この人の人生はどうだったのだろうと考えながら読みました」

男はずいぶん昔に息子を、その後妻にも先立たれ、生きる気力を失っていた。でも、男には仙台に嫁いだ娘と孫が3人おり、とくに疎遠でもなかった。
その一番上の孫娘が心配して、アパートを引き払い、一緒に暮らすようになる。ようやく穏やかな生活が訪れたかのように思えたが、ある日男はその生活を捨てて、1964年の東京オリンピックのときに出稼ぎできていた上野へ向かい、ホームレス生活を始める。


男は、孤立していたわけでも、頼れるひとがいなかったわけでもなかった。なのになぜ、自ら独りになることを選び、自分自身を追い込んでいったのか。



何にピントが合っていないかを知る



わたしも途中、なかなか娘が出てこないなと思いながら読んでいた。でも、90年も前に東北で生まれた男の話だ。そういうものだろうぐらいにしか思っていなかった。


現在の福島県相馬市に位置する旧八沢村に、天皇と同じ1933年に生まれた主人公。息子も天皇の子である浩宮徳仁親王と同じ日に生まれたことから、浩の一字をとって浩一と名付けた。
この二つのエピソードだけでも、主人公が、明治憲法以来、男性を家長とし天皇をその頂点に置く「家制度」「家族国家」の影響下にいることがわかる。


でも、あえて「わからない」と言ったあずさんには、少なからずわたしたちの数人は触発された。まひとさんがこんなことを言った。


「読んでるときは、洋子さん(娘)のことに全く気づかず読んでて。あずさんの感想を聞いたとき、ちょっと恥ずかしいというか、ちゃんと読めば気付けたはずなのに、頭ではわかってるつもりなのに抜けてしまっていたと思った。その感覚が嫌なんです。嫌だから、そういうことに気をつけながら本を読みたいと思っているし、日々生きてなあかんと思ってるんやけど……」


こう言ったあと、柳美里さんのあとがきに触れた。


「あとがきで柳美里さんが、ピントが合わないものを見てしまいますって書いてたけど、僕にとってピントが合っていなかったことが、洋子さんの存在でした。どこにピントが合っていないかに気付くことも大事なんじゃないかと思いました」


物語では中心的に扱われていない周辺的なことがら。作者の、あるいは読者の、ピントの合っていない部分。でもほんとうはそこにあるはずのもの。

日常生活にもそうしたことはいくらでもある。ひとと話すとき、物を考えるとき、照準を緩めたり画角を広げてみれば、見えてくるものがある。それはおそらく「見えていなかった」というよりも「見ていなかった」だけ。自分は何を「見ない」ようにしているのか。



天皇制をめぐって



もうひとつ、「わかる」と「わからない」に大きく分かれたことがあった。
それは「天皇」の存在について。「わからない」と言ったのは、これも、ひろしさんをのぞいた全員だった。

主人公がどうしてこうも天皇ばかり気にするのか。天皇がこの物語の要であることへの共感できなさ。


物語のなかで、天皇の御料車が通り過ぎる際に偶然居合わせた大学生が、携帯で写真を撮り「超ラッキー!」と言う場面があったが、どちらかというとその感じに近いと言うひとや、それすら感じないと言うひともいた。

でも実際、新年一般参賀には10万人を超える人が集まるし、本書の解説でも歴史学者の原武史が、天皇の「磁場」について、それはますます強まっていると書いている。


ひろしさんは「天皇制の磁力というか、磁石のように引き寄せられていくような。思い出せるエピソードがたくさんあります」と言った。


ひろしさんの個人的なお話を書くことになるけれど、ひろしさんは1970年代に沖縄で高校生活を送っている。沖縄がアメリカから日本に返還されたのは1972年。その頃、沖縄闘争という祖国復帰運動、沖縄の自主自立を志向する運動が沖縄全域で激烈に起こっていた。高校2年生だったひろしさんは、先輩に誘われ運動に関わっていく。
そのとき出会った運動の中心にいたある女性が、運動が徐々に下火になっていったときに突然消えていなくなってしまう。その女性のアパートに行くと、小さな箱があり、蓋を開けてみると、明仁皇太子と美智子妃の御成婚パレードの写真が入っていたーー。


「ああいう写真があるわけだよね。沖縄戦では20万人近くが死んで、そのうち約半数が民間人で、 裸足で逃げ回って死んだ。日本全体では 300数十万人。死者の多くが病死や飢餓。戦って死んだんじゃなくてね。その大元にいたのが、天皇だったわけですよね」


過酷な戦場となりおおぜいの人が亡くなった沖縄で、運動の中心であった女性が天皇の写真を大切にしまっていたという事実。そのことをひろしさんは記憶している。それを「磁場」と言わずして何と言おうか。


わたしも沖縄には何度も行ったことがあるし、関心もある。けれど、天皇がのっぴきならない存在であったことなどこれまで一度もなかった。テレビで見るたび、なぜみんなこれほど皇室に関心があるのかよくわからなかった。


しかし、関心があるにせよないにせよ、本書にも何度も出てくるように、天皇家を乗せた御料車が通るとなれば、辺り一帯は事前に特別清掃が行われ、「見せてはいけないもの」が排除される。
上野公園には皇族を乗せた御料車がよく通る。その度、特別清掃という名の「山狩り」が行われ、ホームレスの住処も荷物もすべて移動させられる。


上に書いた天皇を頂点とする「家族制度」はなくなったが、戦後もなお天皇は、日本国民統合の象徴としてあり続ける。男子男系主義も変わらない。わたしたちは自分たちの意思でやめることなく、天皇を抱き続けている。まさに「何が見えていない」かだ。



それぞれの感想


以下では、それぞれの感想を一部紹介したい。


ひろしさん
妻の節子の描写にはすごく惹かれたところがあった。主人公はずっと出稼ぎに出ていたから、節子と浩一と娘たちがどんな暮らしをしていたのかを全く知らない。この節子と息子、娘たち、あるいは舅、姑との暮らしについてだけでもひとつの作品が描けると思う。それも読みたいなと思いました
それから「死」について。この本で語られる死は、この作家だけのイメージだと思った。それは例えば、息子の葬儀で坊さんが語った、死んだら菩薩になるというのでもないし、あの世があるというのでもない。作者の考える死は、死んだ後はどこにも行かずに浮遊して、悟りもしない、無数の疑問が張り付いたままである状態。
しかしながら、死者には生前うまく語り得なかったことを語らせていて、読者になにかを投げかけているように感じました。


けんさくさん
読んでいる最中、ずっと「うるさい」という感じがあった。街のざわめき、何度も出てくる不快な擬音語、見たことのない音で鳴く蝉。皇后の出産を伝えるラジオの音も、そこだけが不自然に太字で、雑音にしか思えなかった。
けれど、他のひとの話を聞いて、天皇をそんなふうにとらえるのかと新鮮だった。こういう本だと思っていなかったので、面白かったです。
僕は本を読む時の癖で、いろいろな対比を探しちゃうんですけど、この本で気になった対比が、ずっと雨が降っていたことと、最後の津波の場面だけが晴れていたこと。太陽が出ているのはそこだけだった。


まひとさん
とても印象に残ったのが、「空を見上げ、雨の匂いを嗅ぎ、水音を聞いているうちに、いまこれから自分がしようとしていることをはっきりと悟った。悟る、という言葉を思い付くのは生まれて初めてだった。何かに捕らわれてそうしようというのではなく、何かから逃れてそうしようというのではなく、自分自身が帆となって風が赴くままに進んでいくようなーー」(p.158)。
文章としてもすごくかっこいいなと思ったし、間違えた読み方かもしれないけど、先ほどひろしさんが言った作者の死のイメージが、この部分だけは少し違っているように思いました。


あずさん
この本の中で一番いいなと思ったシーンは、シゲちゃんが出てきたシーンでした。主人公がシゲちゃんにちょっと飲まないかって誘われて、シゲちゃんのテントに行く。そこでシゲちゃんが身の上話を披露しだした時、主人公は何も言わない。そのときシゲちゃんから渇望のようなものを感じて、怖くなってしまった。そのシーンには、人間がいる感じがしました。ここが唯一、この小説の中で人間関係が表現された部分だと思ったんです。
それから、道行く人たちの適当な会話の部分も好きでした。もちろんこの主人公の男性みたいにものすごい苦しい人生を生きる人たちの状況を考えることも大切なんだけど、どうでもいい適当な会話を続けていけるようなことも大事だなと思いながら読みました。


わたし
キーワード的に言うのであれば、「名前」と「鳥」と「音」と「顔」の4つがとても印象的な小説でした。
そのなかでもとくに「音」は、やけに擬態語や擬音語が多い。最も印象的だったのは電車の音で、最初と最後に出てきて「あの音の側に居る」という一文がある。音に居るってどういうことなのかとずっと引っかかっていて、他のこと(名前や鳥や顔)もなんだろうって考えたときに、やっぱりこれは震災の、津波の小説だと思いました。今まで聞いたこともないような音、軋む音、きっと叫ぶ声もあった。そして、一人ひとり顔が見えないまま海の中に消えていった。海鳥はそのときも上空を自由に舞っていたかもしれない。これはわたしの勝手な読み方ですけど、あらゆるものが津波に収斂してしまう感じがしました


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まだまだいろんな話題が出たが、書ききれない。
それぞれの読み方があり、感じ方があった。あるひとにとって共感できることが、あるひとにはまったくわからないということがあった。

年齢、生まれ育った場所、見てきたもの、、、あたりまえに、一人ひとりみな固有の生を生きている。だからこそ、感じ方も考え方も一様ではない。


そうした自分とは違う見方があることをただ知るだけでなく、耳を傾けてみることによって、自分のなかでは点でしかなかったものがつながり始め、像を結んでいくようだった。耳を傾けるという行為が、実は思っていた以上に能動的で、他者との交流を生み出すものであることを今回の読書会ではとくに感じた。


みなさま、ありがとうございました。
次回の読書会は3月の予定。乗代雄介『最高の任務』(講談社、2020)になりました。
また、お会いしましょう。


木谷恵(九店主/読書会主催)+ 佐野梓(読書会主催)


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