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余談ばかり読んで余談ばかりしていたら痛風と勘違いされた話

2024年7月9日火曜日、時刻は朝の4時をまわったところ。司馬遼太郎『坂の上の雲(一)』を読了した。

夏休みが見えてきたため、全8巻からなる長編に手を付ける気力が湧いてきたところだ。誤解なきよう願いたいのは、ここで言う「夏休み」というのは子どもたちにとっての「夏休み」という意味であって、7月も8月も教員はきちんと勤務をしなくてはいけない。教員に「夏休み」は無い。ただし有給は取りやすいわけだ。

余談だが・・・教員の夏休み期間の仕事には、次のようなものがある。成績を付ける、校外学習の下見に行く、物品の管理をする、二学期以降の授業や行事の準備をする、研修に行く、等。やるべきことは多いが、授業が無い分、体力的には非常に楽である。

司馬遼太郎が好きで、いくつかの有名タイトルは読んでいる。司馬遼太郎との読書は、「余談」との戦いである。小説本編がなかなか展開せず、司馬氏が繰り出す「余談」ばかりを読んでいるうちに、「はて、これは、何のお話でしたっけ?」 と、現在地を見失うあの感じ。

余談だが・・・私の亡き祖父は司馬遼太郎と同じ大学に通ったため、司馬遼太郎全集を愛読していたそうだ。祖父は私がまだ幼い頃に亡くなってしまったため、司馬遼太郎について話すことは無かったが、祖父の死後、祖母がこれを受け継ぎ、大学生の時分には、祖母とよく司馬遼太郎についての話をした。

余談だが・・・祖母は小さい手帳に、びっしりと読書記録をつけていた。ほとんどが司馬遼太郎についての記録であった。大長編ものも、何度も繰り返し読んでいた。とにかく司馬遼太郎ばかり読んでいた。今思えば、先立った祖父の足跡を、司馬遼太郎の小説の中に探していたのではないかと想像する。

「余談」ならもういいや、読み飛ばしちゃえ!なんていう態度で読んでいると、後々ストーリーの中で重要な情報が書かれていたりするもんだから、油断ができなかったりする。それでも、「余談」はしんどいのよ。

余談だが・・・「余談」の多い学校の先生は子どもに歓迎されることが多い。以前に担任した高学年の子どもに、「先生の授業は”脱線”の方がおもしろい」という評価をされたことがあり、反応に困った。

こんな中身のない文章にここまでお付き合いくださった貴方は、素晴らしい方だ。お気づきかと思うが、何が書きたかったかといえば、「余談」が書きたかっただけだ。久しぶりに司馬遼太郎を読み、一度に接種してよい「余談」の量が基準値を越えてしまったため、飽和したぶんをどこかに排出したかった。ただそれだけなのだ。

余談だが・・・懇談会で保護者にも言われて困ったことがある。「うちの子は、先生が授業で”脱線”するのを楽しみにしています。よく、先生がする脱線話を、家でもしてくれます。この間も、なんか、先生が”痛風”になって大変だって話をしてました。お若いのに、先生、大変ですね・・・」

いや、”痛風”じゃないのよ。”腰痛”なのよ。
「余談」ってのは、あんまりうまく人に伝わらないものなのかもしれない。それでも、潤滑油として、生きていくうえで大変重要なものなのだと思う。今日も人様の「余談」を読み、人様に「余談」を振りまく私の一日が始まるのだ。

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