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沈黙に「耐える」から、沈黙の「共有」へ

実習にきている作業療法の学生が「受け持ち患者さんついて知りたい」というので、診察室で話し合ったときのこと。いくらか言葉のやり取りをしたあとに、ふっと沈黙が訪れた。

「……」
「……」
「……」
「……」

「いま、沈黙に耐えた?」
「耐えました」
「よく耐えたね。俺も耐えた(笑)」
「(笑)」
「これが、仲が深まれば沈黙の『共有』になる」
「はい」
「患者さんとの沈黙も、最初は耐える感じになるよ。でもそこから、だんだんと『共有』を目指す」
「なるほど」
「沈黙を共有できれば、無理に話す必要がなくなる」
「わたし、なにか話さなきゃって思っちゃいます」
「とてもよく分かる。俺もそうだから(笑)」
「(笑)」
「そのときに無理に話そうとせず、ただ同じものを見る、同じ音を聞く。呼吸を合わせる。同じ仕草をしてみる。そんなことをするうち、ふっと沈黙を共有してつながる瞬間を感じることがあるよ」

冒頭の沈黙は、このことを伝えるため、あえて沈黙を沈黙のままにして作った沈黙である(沈黙言い過ぎ)。

ただし、意図的につくった沈黙とはいえ、私が「耐えた」のも事実。それくらい、人は誰かとの間に沈黙ができるのを避けたがるということ。そして、だからこそ、「沈黙を共有できる相手」は、その人にとって大切な存在になるのだろう。

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