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【100冊紹介マラソン】(02)村上陽一郎『新しい科学論』(講談社ブルーバックス)

こんにちは。5月21日(土)07:13です。今日から雨模様が続くらしい東京。憂鬱です。

今回もclubhouseでの企画「100冊紹介マラソン」としてご案内したうちの1冊について、書いてみます。この本は手元にあるので、本来なら再読をした上で書きたいところですが、書き終えるのを待っていると、次に進むのがいつになるのかわからないので、今回の記事は「見切り発車」です。村上さんの他の著作との混同があることや、それよりも1979年刊行ということですから、内容が古びていないか心配もあるのですが、先に進めたいので書いてしまいますね。

目次
序章 科学的なもの、人間的なもの
第1章 科学についての常識的な考え方
 第1節 帰納
 第2節 常識的科学観の特性
第2章 新しい科学観のあらまし
 第1節 文化史的観点から
 第2節 認識論的観点から

ぼくがこの著作を知ったのは、学部生だった頃のことです。当時、「知の地殻変動」と言われたムーブメントが起こっていて、おそらくは「現代思想のキーワード」的なタイトルのムックで知ったのだと思います。その後、マートンの「科学社会学」やら、ウェーバーの「倫理論文」やらと接合した上で卒論をでっち上げました。ウェーバーについては、『社会科学における人間』についてご案内する回で取り上げるので、今回はキリスト教信仰が近代科学の勃興期にあって、大きな力として作用していたことを書いておきたいと思います。

さて、今はもうそんなことはないと思いますが、昔の科学史・文明史は、比較的単線的な進歩史観を採用していたようです。つまり、ギリシア哲学とルネサンスの間には、1000年間のキリスト教の蒙昧に覆われていた時代が横たわっていて、ルネサンス以降はキリスト教の影響圏から脱していったとするものです。そこでは、科学史上の人物たち、例えばコペルニクスやケプラー、ガリレオ、ダーウィン等々は、キリスト教の蒙昧と戦った「英雄」たちとして描かれることさえありました。

しかし、村上さんがこの本「など」で紹介している近代科学史像とは、それらと一線を画しています。乱暴にまとめていうと、近代科学の始祖たちの多くは、むしろ信仰心の発露として研究を続け、その成果を世に問うたというものです。つまり、神の作り給うた世界とは、美しい数的秩序が支配するものであって、それを明らかにすることとは、神を讃える行為であったという指摘です。

ぼくはこの本を、ゼミで紹介したのですが、「発想の転換て大事だね」と軽くいなされてしまいました。

それはともかくとして。これ以上の言及をするには、再読が必要となってくるので、今回はここまでといたします。次回以降には、先述のとおりの『社会科学における人間』(大塚久雄著)について書く予定です。最後までお読みくださり、ありがとうございました。それではまた!


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