【読書】イザベラさんの『こころ』論に触れて
こんにちは。
Twitterスペースで、『女を書けない文豪(オトコ)たち』(イザベラ・ディオニシオ著)を読む会に参加していました。このnoteでは、その会に触発されたことを書いてみようと思います。
今回の範囲は、夏目漱石の『こころ』を扱った章でした。
『こころ』は、ご存知の通り先生と奥さんの静(しず)・私(わたくし)・Kを主な登場人物とする、漱石の代表作のひとつです。先生から私に宛てられた手紙の中で、静に心を寄せていたKは、先生と静が結婚することを原因として自死を選んでいたことが明かされました。しかし、その手紙を書いていた先生本人もまた、自死を選んでいたのでした。
よくある問題設定として、静が本当に好きだったのは、先生だったのかKだったのかということがあります。また、先生と私との間の同性愛的な感情について触れている立論もあるようです。
しかしぼくは、ここでこの小説を読む「仮説」として、漱石自身の分裂した自我の諸要素の、採用と不採用、あるいは抑圧という側面から「も」読めるのではないかと提案しておきたいと思います。
『こころ』の主要な登場人物は、ほぼ男性です。静とその母がかろうじて出てはくるものの、その心情についての描写は、「乏しい」と言ってしまってもいいかと思います。しかし、それはある意味「当然」だと言ってしまってもいい。
漱石が実際に生きていた社会は、ほぼ「男社会」だったと言えると思うのですが、その中で、男たちの視線のネットワークに晒され、がんじがらめになっていた漱石の心のそれぞれの部分は、先生・K・私として分配され、あるいは分裂していたのではないでしょうか。この「視線のネットワーク」は、作中にも先生やKの家族たちの視線として登場します。
その「分裂」に耐えかねた漱石は、まずKを「殺し」、次いで先生を「殺し」ます。つまり、自分の中のK的な部分と、先生的な部分とを「殺し」たのではないかという仮説、というよりは、「思いつき」です。
—以下、「追記」ですー
漱石は、Kと先生の「部分」は殺した代わりに、「私」を「引き受けた」のではなかったでしょうか。
—追記、ここまでー
言わば「男子校」のような社会の中で育ち、視線に晒されていた漱石は、その男社会の「息苦しさ」が、書きたかったことの一つだった可能性はないでしょうか。
あと、男女の「出会い」が少なかったのではないかという発言があったので、それについて愚見を述べ、この小論を閉じるつもりです。つまり、明治以前の「共同体」的な世界にあっては、生まれ落ちた時には、おそらく配偶者は同じ共同体の中に、すでにあったのではないでしょうか。明治期に至り、大衆社会的な状況が発生して人々がアトム化、流動化して、いわば「むき出しの個人」の群れとして、個々人が個々人の責任において配偶者を選び取らねばならない状況が、おそらく「初めて」発生したのではないかというのが、ぼくのお粗末な考えです。
好き勝手なことを書き連ねてしまいましたが、ジャンクフードと思って読んでいただけたなら幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。それではまた!
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