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創作シリーズ「熾火」(17)

こんにちは。

「熾火」第一部は、(16)で本編が完結いたしました。以下は、「あとがき」として23/08/29に「はてなブログ」に公開したものです。ご覧ください。

連続創作「熾火」あとがき

自分の父と母たちを「物語」として書き留めていきたい。それは、自分の権利のようなものであるばかりか、その「使命」さえも自分は有していると、いつの頃からか考えるようになっていました。今回それを、極めて拙い形ではありますが、実行できたことを喜ばしく思っています。

1回を約1000文字前後で書き進めていくという方法を得たのは偶然のことで、それはちょうど新聞連載の分量なんだそうです。このスタイルを掴んだことで、記述に弾みがつきました。全体としても、短編小説程度の分量になりました。

谷中昌行は、病を得たことと、家族とともに生活保護を受けるようになったことから「何ごとか」を掴み、最終16話で語ったように、ある種の成長を果たしています。未だ筆力及ばず、それが唐突な印象しか残らなかったとすれば、それを第二部(「熾火Ⅱ」となるはずです)以降で回収できるようでありたいと考えています。いずれまた、お届けする日々を再開することになると思いますので、その節はどうぞよろしくお願い申し上げます。ご講読ありがとうございました。

(23/08/29)

おまけエッセイ:「熾火」の由来について

今までご説明する機会を見つけられないでいた、「熾火」(おきび)の語義について、今日は書いてみようと思います。

実は「おきび」にはもう一つ、「燠火」という書き方もあります。私が最初に見かけていたのは、こちらの表記であったことがわかりました。この2つ、どちらも炭火に関連する言葉なんだそうですが、意味は少し違っています。

①熾火=火勢が強くて赤く熱した状態の炭火のことで、「おきび」ともいう。

②燠火=薪や炭が燃え尽きて白くなりかけた状態のことで、「おき」ともいう。

私がある著作で見かけたのは②の表記だったことが判明したわけです。意味としても、「一見燃え尽きているように見えてはいるが、未だ内面に熱を秘めている状態」として使用していることが多いので、これも②に近いと感じています。しかし、表記としては①を使ってしまっていました。しかし、この「熾火」の表記のままで使っていこうと今は思っています。

この「熾火/燠火」を見かけたのは、批評家・随筆家の若松英輔さんの著作中で紹介されていた、岩崎航さんの詩集『点滴ポール 生き抜くという旗印』(ナナロク社)においてでした。その詩を以下に引用します。

誰もがある
いのちの奥底の
燠火は吹き消せない
消えたと思うのは
こころの 錯覚  (p.51)

つまり、「こころ」は「いのち」の真実を、時として見誤る。いのちの次元では、未だ熱をもっていることを、こころが感受できないことがあるということも言い当てているのだと思うのです。

こころが弱っていても、「いのち」は力強く息づいていることを、私たちはここから学ぶことができると思います。

(23/09/01)


今回はここまでといたします。お読みくださいまして、ありがとうございました。次回からの公開は、続く「熾火Ⅱ」を順次お届けいたします。どうぞよろしくお願いいたします。

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