娘のプリクラ
ゴールデンウィーク、娘たちはそれぞれの友達と遊ぶ約束をしていて、日中はほぼ家にいない。
私は一人でゆっくり読書をしたり、テレビで映画を見たりして過ごせるので楽なのだけれど、親離れしてるんだなと少し寂しい。
ところで、昨日長女が帰って来て、友達と撮ったプリクラを見せてくれた。
昨日のプリクラに限ったことではないが、みんな顎が細く、顔が小さく、目がやたらと大きく加工されている。
私はプリクラのこの加工された顔を見る度に思ってしまう。
これ、みんな、本当にかわいいと思ってるのかな?(小声)
写りをよくしたいって気持ちは私にも分かる。
私も肌がきれいに見えたり、クマが目立たなくなったらうれしい。
だけど、このプリクラの加工は、みんな画一的過ぎてなんだか変な感じが…
だけど、ここ何年もこういう感じみたいだし、娘によると、「加工しない」という選択肢もないってことは、これが今の「かわいい」なのかな。
私が時代についていけてないだけなのかも。
この「みんな一緒の顔」を見ていたら、最近読んだ朝井リョウさんの「死にがいを求めて生きているの」を思い出した。
この本は、「螺旋プロジェクト」の一環として書かれていて、海族と山族の対立の平成篇なのだけれど、運動や成績などあらゆる競争の種が排除されるようになった時代に生きてきた対照的な二人の姿が描かれていて、とても面白かったし、読後胸に刺さるどころか抉られた感じだった。
この本の中で、競争を避け、ナンバーワンよりオンリーワンを目指し、それぞれの個性を大切にすることで、争いのない世界が生じるかと思っていたけど、そうではなく、結局今まで外側の誰かがしてきた順位付けを自分自身の中で行うという形に変わったというような箇所があった。
結局、表には出すか出さないかの違いはあれど、共通の「これがかわいい」「これがかっこいい」「この生き方が素敵」とされるものさしがあって、そこに向けて合わせようと自分を近づけていくのは変わっていないのかもしれない。
競争しない、対立を生まないということが、決してそのまま多様性を認めることになるわけじゃないんだなと今更ながら思った。
私自身も「いい母」「いい同僚」のものさしに合わせようとしてる。
破天荒な母というのも憧れるけど、それはそれで「憧れの破天荒な母」像のものさしがある。
そして、認めるのが恥ずかしいけど、そのものさしの中で「あの人に比べたらまだまだ」「あの人よりはできてる」って無意識のうちにマウンティングしてる。
全く比べることなく、自分も人も肯定する技を私はまだ身につけていない。
だけど、ひとまずは自分と違う価値観に対して「心の底からいいとは思えないけど、だからと言って相手にマナー違反な態度はとらない」くらいならできるかと思う。
だから、できるだけ礼儀正しく言おう。
娘よ、プリクラ撮るのも、眺めて楽しむのもいいと思うし、「みんな同じようにかわいく」写るプリクラは、平等でハッピーなのかもしれないけど、やっぱりそのままの方が、顔が多少大きくなっても、生きてるって感じがして母は好きです。
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