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町田康氏について語りたい

あかんではないか。

町田康氏の文章と出会ったのはつい最近のことで、昨年の11月、親友とドライブ中に、ゴーゴリ的ユーモアを学びたいのだがどうすればよいか的な質問をぶつけてみたところこれを読めと勧められたのが町田康氏の「告白」であった。ただそれだけのことだった。

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文庫本としては珍しいくらいの圧倒的なボリューム感に打ちのめされ、初めは読む気が失せてしまった。だが、我慢して文字を追ううちに夢中になってしまった。あそこまで書物に没頭できたのは小学生の頃に「かいけつゾロリ」シリーズを読み漁っていたころ以来だった。マジで。

といって熊太郎は不真面目だったわけではなく、熊太郎もできれば真面目にやりたかった。しかし脇目もふらず真面目にやることが果たして真面目なのかと熊太郎は真面目に思った。

町田康「告白」より引用

初めてこの言葉を読んだとき、これが「言語化できない苦しみ」みたいなものを数行で、きわめて的確に、しかも簡便な言葉で表現する。これこそ、作家の真似できない才能というものなのかと真面目に思った。言い得て妙とはこのこと。きわめて正直者であるがゆえに外面そとづらをうまく着飾ることができず、そのせいで他者と上手く交わることもできず、かといって彼は折角生まれた人生、楽しくやっていきたいという思いだけは人並みにあるのだが、うまくやらなければならぬ、頑張らなければならぬという意識が働けば働くほど不器用で愚かな堂々巡りをしてしまう人。その心中には蠟燭の炎のような、頼りなくしかし限りなく優しい、人を心底ホッとさせるような暖かみが確かにあるのだが、その光は小さく、誰の目にも止まらず、触れると火傷をするほどの暖かみであるがゆえに誤解され、周囲の人間に恵まれず、理解者を得られず、それでもよりよく生きていこう、良心的に生きていこうと決意しながら苦しむ人間の姿。生の姿。

彼の作品の中には「英雄」など金輪際現れない。町田氏がスポットライトを当てるのは、どうしようもなく放埓で、目を覆いたくなるほど下品で、「常識的な普通の人」ならその不器用さに心底ムカムカしてくるような、非常に小さな場末の人間である。その人間を容赦なくとらえ、その胸骨を切開し、心臓をさらけ出し、暖かい生血を唇をスボめてごくごく飲む、アルコールとニコチンと、そして世にも稀なる暖かな愛情のこもった血、泣いた赤鬼の血。町田氏の文学を拙者が精一杯表現するとすればこの程度が関の山である。

文学とは何だろう、という質問に私が答える資格はない。だが、それは決して読んでいて一から十まで心地良いものであってはならない、と思っていたりする。その文章や、情景、作者の紡ぎ出す物語の、美しさにひたすら耽溺する鑑賞もあっていい。だが、腹に力をこめて読み、その内容を咀嚼し、その内容を自分の精神とひき比べて苦しみ、作者の魂の前で大粒の、悔恨の、改悛の涙を流す。そんな芸術作品があってもいい。というか、自分はやはりそういうのがいいのである。そういうのが好きなのだ。

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