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【ショートショート】とある婦人の成長物語

ある日、カウンセリングルームにて。


「あたし、悪人になりたい。」

突然、相談者が言い出した。

「どうしてですか?」

「だって、悪い方が得するじゃない。一生懸命親切にしたって、うまく利用されるだけされて、あとは忘れ去られるだけ。」

「いえいえ、きっとどこかで見てくれてる人はいますよ。それに、誰かにやってあげたことは自分にも返ってくるっていうじゃないですか。」

こんな時にしごくありきたりなことしか言えない自分が怨めしい。同じようなことを言う人を何度も見てきた。彼らは全く同じことに悩んでいた。素直に幼少期からの教えをそのまま胸に取り込み、一切曲がらずにまっすぐ成長してきた大人たちばかりだった。だが、彼らはあまりにまっすぐでありすぎるのだった。強い風が吹いたとき、地面から垂直に立っている木は瞬く間にポッキリ折れてしまうのだ。

「そんなこと何回も聞きましたわ。でも、結局ダメなの。私がなんでもしてあげること、嘘をつかないことをみんな『すごい』だの『すばらしい』だの言いながら、ほんとはみんな軽蔑してるに決まってるわ。あいつはお嬢さんだから、世間知らずだから・・・なんて言って。あれほど正直になりなさい、嘘はつくんじゃないって言っていた人たちが、あれだけ平気の平左で嘘をつくんだもの。わたしも、嘘をつけるようになりたくなったのよ。」

私はただ黙って聞いていた。

「嘘をつけるようにならなきゃいけない。これは義務だわ。だからこの前、不倫をしてみたの。」

「だって練習なのよ。私はこのままだと一生利用されて終わってしまう。素直なままじゃ生きていけない世の中が悪いのよ。」

「でも、旦那さんの気持ちは考えなかったんですか?」

「最初はやっぱり抵抗があったわ。でも、あの人いっつも『お前は嘘がつけんからな』とか何とか云って私のことバカにしてるの。もうやっちまえってね、すごく簡単だったわ。何も恐れることはないのよ、あれだけのこと。誰にもばれてないし。夫なんて疑いすら抱こうとしないで、『出かけるの?まあ、楽しんでおいで!』だって。あたしのことになんかもともと興味ないのよ。」

「すると気づいたの。世の中、明らかにウソをついたほうが得なのよ。だってどんなに傷つけられても、どんなに嫌な事されても、相手のことが好きで好きで仕方なければみんな許すじゃない。許す側に回るよりも、許される側に回らなきゃ、人生損よ、あなた。」

「そうですか。あなたがそう願うのならもうお止めは致しません。どうやら、あなたの言うことは間違ってない。困ったことに。」

「ね、そうでしょ。不思議なんだけど、あたし彼氏ができてから、夫と子供に優しく接することができるようになったの。今まで自分にイライラしてたのを結構ぶつけちゃったりしてたんだけど。だってあたしには彼がいるし、こうして夫をまんまとだましていることを考えると、なんだか夫が可哀そうになっちゃって。余計に優しくするモチベーションが湧いて来ちゃった。人間って、変ね!好きじゃなければ好きじゃなくなるほど、優しくなれるんだから。」

「そうかもしれないですね。」

「ねね、私思うの。世の中で『優しい』とか『紳士だ』とか言われてる人って、大体嘘つきなんじゃないかしら。あの人たちは何か許されざる秘密をもっているからこそ、いけしゃあしゃあと柔和な仮面をかぶれるんじゃないかしら。素直な人ほど、自分の不甲斐なさに我慢できなくなってそれを爆発させて破滅するのよ。すぐに怒ったり、ヒステリーを起こしたりする人って、実は正直な人たちなんじゃないかしら。で、外側に出てきたものだけで人は判断されるでしょ。やっぱりウソをついて生きたほうが得じゃない!」

彼女は言った。みずみずしい唇がぷるぷると震える。

私はなんとなく窓の外を眺めていた。砂利だらけの土の上にまっすぐ立つポプラの木が、今まさに切り倒されようとしているのを見つめていた。

目の前の彼女はごく普通の主婦である。透き通った目をしていた。そして、情欲が満たされている人間が持つ、ある種の残酷さを身にまとっていた。

「それじゃ、約束があるから。今日はお話を聞いてくれてありがとう。」

彼女は出ていった。

今聞いた話について、私もむかし考えたことがある。ウソをついたほうが得なんじゃないかなんて、どんな人間でも一度は考えることだろう。同じようなことを言う相談者を何度も見てきた。今の主婦も、私の数多くいるクライアントの一人に過ぎない。

みんなどうやって折り合いをつけていくのだろう?

彼女みたいに、実際に危険を冒してやってみることで自分を克服する勇気のある人もいれば、いろんな本を読んでなんとか自分をムリヤリ納得させた人もいる。絶望して自殺してしまった人もいる。

なんとも不条理な話である。正直な人間は苦しまなくてはいけないらしい。

でも、今日は物思いにふけるのはここまでだ。

今すぐマスクを脱いで、サングラスを外して、メイクを落とさないと。妻の不倫現場を押さえに行かなければならないのだから。

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