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国木田独歩「牛肉と馬鈴薯」で思い出したいな・・・、あの頃の眼を。

ーーー窓の外を見てみればいつも通り青い空が広がっている。どうして空はこんなにも青いんだろう?季節ごとに微妙に色が違うんだろう?

「当たり前でしょ。空なんだから。」

確かに。そうだ。納得せざるを得ない。呑み込まざるを得ない。空は青いんだから。

だけど、それでいいのだろうか?

酸いも甘いも嚙み分けたような顔して、「そりゃそうだろ」が口癖の大人たちは、何か大切なものを忘れていないだろうか?

それは、「心を動かされる」ということ、「驚く」ということ・・・

もう記憶が薄い時代、あの誰にでもありふれた幼少期、僕たちの目は新鮮な喜びに満ちていた・・・。いつ頃あれを忘れてしまったのだろう?

明治の詩人、国木田独歩の「牛肉と馬鈴薯」をお届けします。ーーー


時は明治時代。「明治俱楽部」とて、桜田本郷町のお堀端に西洋造のあまり立派ではないが、それでもかなりの建物があった。

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その明治倶楽部のなかでは、カード遊びをやりながら、ウイスキーをやっている紳士方がいた。今日はどうしたことだろう。時刻は午後8時過ぎになっているのに、まだ二階の洋室からランプの灯りが煌煌と漏れている。

どうやら、紳士方は「人生観」とやらの話をしていると見受けられる。

各々いろんな話をした。

上村という紳士は、東京の人間があまりに「名利と金に汲々としている」ことにむかっ腹を立て、ある時突然北海道に逃げた、という体験を語った。

「よろしい!僕は卒業するや一年ばかり東京でマゴマゴしていたが、断然と北海道へ行ったその時の心持と言ったら無いね。なんだかこう、馬鹿野郎!というような心持がしてねえ。ピューッと汽笛が鳴って汽車が動き出すと僕は窓から頭を出して東京の方へ向かって唾を吐きかけたもんだ。僕は馬鈴薯党になりたかったのさ。ともかく無事に北海道に着いて、苦も無く十万坪の土地が手に入った。そこで、すぐに馬鈴薯(じゃがいも)を耕して暮らそう、額に汗して遁世の時間を楽しむんだ、という意気込みに駆られましてねえ。がんばったもんですよ。」

「ところがですよ、皆さん。この冬ってやつが、何とも感心しないやつでねえ。シンとした林の上をぱらぱらと時雨てくる。日の光が何となく薄いような心持がする。話し相手は無しサ。食うものは一粒いくらと言いそうな米と例の馬鈴薯、これだけさ。あのまま冬を越してたら僕あ死んでたね。」

例の上村は、周りの紳士からやれ阿呆だの馬鹿だのこき下ろされた。だが、彼はどこかそれを楽しんでいる風でもあった。

そして岡本という紳士の番が来た。

「僕には、願いがあるのです。僕はこの願いが叶うのなら今すぐ死んでもいい。逆に、もしこの願いが叶わぬのなら今から百年生きていても何の役にも立たない。いっこう嬉しくない。むしろ苦しゅう思います。」

一体その願いとはなんだろうか?

「言いましょう。びっくりしちゃあいけませんよ。」

たいそう気になるではないか。

「びっくりしたい、というのが僕の願いなんです。」

何だ!バカバカしい。

紳士諸君は投げ出すようにこう言ったが、近藤という紳士だけはじっとして聞いていた。

「こういう句があります。

Awake, poor troubled sleeper: shake off thy torpid night-mare dream.(目を覚ませ。ひどく貧しい眠り人たちよ。汝の恐ろしい悪夢を振り払い給へ。)

すなわち僕の願いとは夢魔を振り落としたい、ということです! 」

何のことだろう?サッパリ分からない!

「宇宙の不思議を知りたい、ということではない。不思議なる宇宙を驚きたい、という意味です。

何じゃいそりゃ。勝手に驚いてろよ。

「勝手に驚いてろ、とおっしゃいましたね。勝手に驚けとはしごく面白い言葉です。しかし決して勝手に驚けないのです。」

「僕の恋人は死にました。僕は恋の奴隷だった時期もありましたから、かの娘に死なれて僕の心はどれほど搔き乱されていたことか!しかし、その恋よりもさらに強い力を人心の上に加えるものがあることが知られています。」

「それはすなわち、習慣の力です。

Our birth is but asleep and forgetting. (我々の誕生の瞬間、その時の感性は、以後、ただ眠っていて忘れ去られている。)

この句の通りです。僕らは生まれてこの天地の間に来る、無我無心の子供の時から種々なことに出会う、毎日太陽を見る、毎晩星を仰ぐ、ここにおいてかこの不可思議なる天地もいっこう不可思議でなくなる。生も死も、宇宙全般の現象も結局茶番となってしまう。哲学でござる、科学でござる、などと言って、自分が神になったかのような態度でこの宇宙を取り扱う。」

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「考えてみれば、実に天地なるもののいかに不可思議な物か!太陽はなぜ東から昇るのか!春になればなぜ若草が生えてくるのか!そして、この僕の目は、どうしてものを見れるのか!この問いそのものが心霊の真面目なる声である。これを嘲るのはその心情の麻痺していることを白状しているに過ぎない!僕の願いはむしろ、どうにかしてこの問いを心から発したいのであります。」

青年たちは笑い転げた。

「人に驚かしてもらえばしゃっくりが止まるそうだが、何も平気で生きていられるのにわざわざビックリしたいというのも物好きだね君い。」

とある紳士は言った。岡本も笑いながらそれに返した。

「いや僕もビックリしたいとは言うけれど、やはりただ言ってるだけですよ。ハハハハハ。」

「ただ言うだけか。ハハハハハ。」

「そうでさあ!やはり道楽なんでサ!アハハハハハハハ。」

岡本は一緒に笑っていたが、彼の顔には言うべからざる苦痛の色が見て取れた。





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