シンギュラリティで生きる気力を失わないために

養老孟司先生の『〇〇の壁』シリーズが好きで、よく読んでいる。

その中で、いくつかの本で書かれているのが、「都会は人間の脳が作り出したもの=意味のある物しかない、山に行くと意味のある物はほとんどない、人間は都会ばかりにいるとどこかおかしくなる」ということである。

どうも最近の我々は、何かしら脳で意味があると判断するものにしか価値を感じられなくなっており、養老先生はそのことを憂いているようであった。

読んだ当初は「たしかに~」としか思わなかったのであるが、最近シンギュラリティと言う言葉と、近々AIによって人間が労働から解放される的な予言を知り、あれ?と疑問を感じた。

もし、人間が労働から解放されたとして、労働をしない人間自身に我々は価値を感じられるのであろうか。

言い換えると、労働することを通して以外に、我々は自分自身に意味を見出せるのか?ということである。

ここのとこ、「自己実現」という言葉が定着し、よく使われるようになったが、大体この言葉は「労働を通して」というニュアンスを含んで使われる。

では、その「労働」というものがすっぽり無くなった(あるいはしても意味が無い)場合、我々は何を以て「自己実現」をするのか。

世の中には労働を通して自分のアイデンティティを確立している人がそこそこ居ると思うのだが(仕事できる私かっこいいとか、社長である自分すごいとか)、生活の大部分を占める「労働」が無くなった場合、我々は自己を保てるのだろうか。

最初はいいだろう。たくさんの娯楽に囲まれて時間を忘れられる。

しかし、1ヶ月もするうちに飽きが来るだろう。

そしてその飽きた後、我々はやることも無く、他者に承認もされず、貢献もできない自分に対して絶望するのではないだろうか。

もちろん、新しい環境に上手く適応できる人はいるだろう。芸術するもよし、政治に手を出すもよし、ボランティア(そのころに必要があるかは不明だが)するもよし、だ。

でも、適応できない人もいるはずだ。そういった人はどうなるのか。

個人的には、ボケるか自殺かではないかと思う。

日がな1日YouTubeやNetflixを覗いて、ある日ふと嫌になって死んでしまう。そんな未来がふと想像できた。恐ろしいことである。


まあ、そこまでにはならないかもしれないが、AIによって仕事を奪われ、人間が「用済み」となる未来はもうすぐかもしれない。その時、絶望しないためにはどうするべきか。

一つは、養老先生の言う、「意味のあるものにしか価値は無い」という価値観を手放すこと。そこら辺に落ちている石や、野山にただ生えている草木と同じように、自分自身が生きることに意味を求めないこと。

もう一つは膨大な空き時間を何に費やすのかを考えておくことだろうか。今までやりたかったけどやれなかったことに挑戦するもよし、何か楽しいことを追求するのもいい、旅をするのもいい。

シンギュラリティがいつ来るのか分からないが、心構えはあった方がよさそうだと思った。


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