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「箱男」書評 安部公房

安部公房の『箱男』は、1973年に発表された小説で、現実と虚構、存在とアイデンティティの曖昧さをテーマにした実験的な作品です。物語は、段ボール箱を被り、社会から自らを隔離して生活する「箱男」の視点から語られます。箱男は、都市の中で匿名性を保ちながら放浪する存在で、社会から距離を置き、自分自身を見つめ直すために箱の中で生活をしています。

物語は「箱男」の独白や断片的な記述、他の登場人物とのやり取りを通じて進行します。箱男の生活は孤独であり、彼は日常の煩わしさや人間関係から逃れるために、段ボール箱を被ることを選びます。しかし、その行為は単なる現実逃避ではなく、社会の中での自分の存在を再定義しようとする試みでもあります。箱の中で生活することで、彼は自分を社会の枠組みから切り離し、他者との接触を極力避けながら、自己との対話を深めていきます。

箱男は、次第に「箱男」という存在自体が、自分のアイデンティティを象徴するものとして機能していることに気づきます。彼の箱は、彼自身を外界から隔離しつつ、同時に彼自身の存在を定義する道具となっています。物語の中で、箱男は次第に自分が他の箱男と区別がつかなくなるという不安に襲われます。この「他の箱男」とは、実際には彼自身の別の側面や、彼が想像する他者かもしれません。物語の進行とともに、箱男の自己認識はますます曖昧になり、彼が自分自身を見失っていく様子が描かれます。

『箱男』には、看護婦と医者という二人の主要な登場人物が登場します。看護婦は、箱男が段ボール箱を被って放浪する以前に知り合った女性で、彼女との関係が箱男にとって重要な意味を持ちます。看護婦は、箱男の存在を認め、彼に寄り添おうとしますが、彼女自身もまた謎めいた存在であり、完全に理解することはできません。彼女との関係は、箱男にとって現実と虚構の境界をますます曖昧にする要因となります。

医者は、箱男にとってある種の対照的な存在です。彼は、看護婦との関係を通じて、箱男を箱の外に引き戻そうと試みますが、その動機や目的は不明瞭です。医者もまた、箱男が直面する現実の不確実性や、自己アイデンティティの揺らぎを象徴する存在として描かれます。医者と箱男との間には、微妙な緊張関係が存在し、彼らのやり取りを通じて、物語のテーマである現実と虚構の曖昧さが強調されます。

物語が進行するにつれて、箱男は次第に現実との接点を失い、彼の独白はますます断片的で曖昧になっていきます。箱男の視点から語られる物語は、彼の主観的な経験や感情、そして現実との摩擦によって形成されており、それが物語全体に不安定な雰囲気をもたらしています。箱男の存在そのものが、読者に対して現実の曖昧さや、人間のアイデンティティがいかに流動的であるかを示唆しています。

『箱男』の結末において、物語は特定の結論に到達せず、むしろ読者に多くの解釈の余地を残します。箱男が最終的にどのような結末を迎えたのか、また彼が本当に存在していたのかどうかすらも不確かです。この結末は、安部公房が意図的に提示した「不確実性」と「曖昧さ」のテーマを強調しており、現実と虚構の境界が常に揺らいでいることを示しています。

『箱男』は、読者に対して自己とは何か、現実とは何かという根源的な問いを投げかけます。箱男の存在を通じて、安部は人間がいかにして自分自身の存在を確立し、社会の中での位置を見つけようとするかを探求しています。しかし、その過程は必ずしも成功するわけではなく、むしろ多くの人々が自らのアイデンティティを見失い、現実と虚構の狭間で揺れ動くことを示しています。



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