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短編小説『諦念な暮らし』

『諦念な暮らし』

               眞琴こと

「好きなドーナツはなんですか?」

淡いピンク色をした入力欄に、私はそう打ち込んだ。風俗情報サイト「ハピハピタウン」の「お気に入りチャット」はその名の通り、お気に入りや気になっている風俗嬢と直接やりとりすることができるチャット欄だ。

 四十近くにもなれば自然と甘いお菓子よりも質素な和食なんかを好むようになると思っていたが、どうやらそうでもないらしい。子供のころから変わらず甘いものはおいしいし、複雑な味のものは味が定まっていないような気がしてすすんで食べる気にはなれない。酒を飲めば多少は違っていたのかもしれないがそれも今のところあまり興味はない。

 先の質問は何も本当に好きなドーナツが知りたいわけではない。単に話のきっかけをつくりたいときは好きなドーナツをきく。話題を変えたいときは好きなおでんをきくと決めているだけだ。SNS上で無視するわけにもいかない人から際どく絡んでこられたときは、「そういえばさ、好きなおでんの具ってなに?」などと話題を変えている。脈絡もなく強引ではあるが相手にも伝わってしまう「ブロック」より角が立たない。それにSNSはいつ読むかもわからないし、相手がどこにいるかもわからない。そんな相手に対して天気の話題をしても挨拶にすらならない。ドーナツは会話に華を、おでんは平和をもたらしてくれる。

 

 夏も終わりに近づき、月に二回のペースで通うこととなった心療内科へ向かうため、最近越してきたばかりの青い瓦屋根をした南欧風の古いマンションを出た。高い位置から降り注ぐ、刺すような陽の光を一身に浴びながら駅のほうへ歩いて向かう。私の住むマンションのほかにも古い住宅や団地が多く、このあたり一帯の住民といえば、高齢者だ。しかし、ここ十数年で一気に外国人も増えてきている。人種の坩堝なんていう言葉を昔はよく聞いたものだけれど、実際のところコミュニティは交わっていない。それぞれにコミュニティは存在しているが、高齢者は外国人を怖がり、外国人は日本人高齢者のことなど気にしない。なんともつまらないものだが、それでも街の体を保てている。そもそも交わる必要などないのかもしれない。

 駅まで続く表通りから並行して伸びる車通りの少ない商店街を歩く。せっかくならうるさく狭い歩道ではなく、少しでも静かな道を歩きたい。引っ越してくるまで気づかなかったが、二十数年前に通っていた高校にかなり近かった。実家と学校、点と点を行き来するように通っていた高校時代を思い出す。ネットの情報だが、あのころに比べると中国やベトナムの食材を取り扱う店がかなり増えているようだ。けれど、今の世界は料理に国境がない。そのような世界に「変更」された。料理に国境がなくなり、スーパーではフェアでなくともよくわからない中華食材やインスタントのフォーなんかを買うことがでる。中国やベトナムの食材店には蕎麦や納豆が一応並んでいる。しかしやはりというかなんというか日本人と外国人が交流するには至っていないように見える。国の異なる人々は交わることなく、ただ食材や料理だけが交換留学している。なんともつまらないものだが、それでも街の体は保てているのだから仕方ない。

道行く中学生の集団も私が聞き取れない言語を話している。その集団に日本語を話している子はいない。そういえば私の通っていた高校は、いつの間にか中高一貫校になっていたんだっけか。

 商店街を歩いている私の横をよくある真っ白な商用バンが通り過ぎた。なんとなくそれを目で追っていると、商用車は大きく何かをよけるように蛇行した。その道の真ん中で自転車を止めかがんでいる女性がいる。近づいてみると、自転車の後ろの車輪にワンピースの裾を巻き込んでしまったようにみえる。前にかご、後ろに荷台のある臙脂色のいわゆる普通のママチャリが人間に反抗しているみたいだ。

機械は人間の僕であるが奴隷ではない。付き合い方を誤れば反抗は免れない。バイクや自転車のようなむき出しの機械との付き合いでは、巻き込まれる恐れのあるものを身に着けるのは禁忌である。もっとも、機械の側からすればただ仕事を全うしているだけなので反抗でもなんでもなくただ迷惑を被っている。それこそ巻き込み事故なだけだ。機械を扱う側として、機械を理解せず適切に利用しないことの当然の報いでしかない。しかし、身近にある機械の正しい使い方について一から十まで理解することは難しいのもまた事実だ。カセットコンロはガスボンベにかぶさるような鉄板を載せてはいけないし、脚立はまたいではいけない。想像力がなければエスカレーター脇のアクリルの保護板の意味もわからないだろうし、自転車の後輪につけられているネットの意味もわからない。この自転車にはネットはついていない。仕方のないことだ。

「お手伝いしましょうか」

と私は声をかけ近づき、自転車のやや後方に向き合った。どうやら道行く人は少なくなかったが声をかけたのは私だけだったらしい。あまりにも突然のことでどうしてよいのかわからず焦っていたようだが、私に声を掛けられ少し安心したようだ。手先の器用さには自信がある。何とかしてみよう。

時間はかかってしまったものの、なんとか絡まった裾を取り出すことはできた。絡まった際にワンピ―スは傷んでしまったが、女性は何度もお礼の言葉を口にする。もう不安の表情は消えていた。彼女は鞄からアルコールティッシュを出し、私たちは車輪を触って手についてしまった汚れを拭いた。アルコールティッシュは開封してからかなり時間が経っていたのか半分渇いたので油やホコリが混じった汚れを完全に拭い去ることはできなかったが、仕方はないが、私の気持ちは幾分晴れやかだった。

当然の報いとか力になれるかとかは別として、私は困っている人をなかなか見て見ぬ振りができない。私ではきっと力になれないだろうと判断して素通りしても、あとで、あのあとどうなったのだろうか、誰かが助けてくれただろうか、もしかしたら自分でも力になれたのではないか、などと終わりのない霧の中を進むようなモヤモヤを抱いてしまう。そうなるくらいならたいして力になれないとしてもひと思いにえいやっと助けに入った方が、自分が納得できる。結局は自分が後悔しないための自己満足による手助けなのだが、スタートはどうあれ今回はちゃんと助けられて私自身も安心した。

 女性と軽く二三言葉を交わして別れた。そのとき。

 

♩~(A(ラ)の音)

 

かすかに鳴る、世界が「変更」される音。それを私は聞き逃さなかった。オーケストラのオーボエからはじまり弦楽器、管楽器、低音楽器と続くAの音のチューニング。絶対音感はない。ただ、小さなころからやっていたピアノや学生の頃にやっていた吹奏楽で培った相対音感と、小さな音も拾える耳の良さは、手先の器用さに次ぐちょっとした自慢だ。なによりこの音は物心ついたころから幾度となく聞いている音でもある。

「あーあ、今回は割と平和なほうだと思ったんだけどな……」

 ひとりごちる。世界は突然前触れもなく「変更」されてしまうからだ。いつどうして何のために変わっているのかはまったくわからない。ただただ自動的に変わっているかもしれないし、誰かが何かの道具や力で変えていたりするのかもしれない。どうあれ、あるとき突然鳴り響くこのAの音を合図に世界は「変更」され、みなそれ以前の世界の記憶も無くし何事もなく新しい世界に順応していく。まるでスマホの自動アップデートだ。

 私を除いて。

 そう、私は世界の「変更」の外にいる。「変更」以前の記憶を保ち、自動的に順応はしない。「変更」が起こるたびに世界のルールを探し、頭と身体を慣らしていく。手動アップデートだ。

子供の頃は学校で様々なことを教えてくれた。間違えば優しく諭してくれた。しかし大人になってからはもう誰も何も教えてはくれない。ルールがすぐ見つかるときもあれば、全然見つからずによくわからないまま過ごすことも少なくはない。当然、ルールによっては順応できないことも、ある。

 二十代の頃に一度だけ、よくわからない世界になったことがあった。ほんの三週間足らずの期間ではあったが、気持ちの悪い世界だった。すれ違う男女のほぼすべてから多かれ少なかれ性の対象として見られ、勝手に値踏みをされた。この気持ち悪さや腹立たしさは経験しないとわからないだろう。電車で痴漢にも遭った。駅ではおっさんにぶつかられ、階段から突き落とされた。幸い大けがにはならなかったが私は二週間ほどでその世界に対応することをあきらめ、会社を休み可能な限り部屋に引きこもるようになった。こんな地獄のような世界って何なのだろう。そんなことばかり考えて毎日を過ごした。SNSでは私のように被害に遭う男女の投稿が少なくなかった。なにやらハッシュタグがついてトレンドになっていた。引きこもりが一週間を迎えたころ、元通りの平和な世界に戻った。SNSでどんなに声があがろうと世界は変わらない。声をあげるくらいで世界を変えたいだなんてそんな気持ち悪い世界は二度とごめんだ。せめて「変更」の間の記憶が私以外の人間にも引き継がれれば、この静かな地獄のような世界も少しは変わっているかもしれないけど。

 

 勤めている会社では男女問わず親しまれている中間管理職だった。仕事には手ごたえを感じていたし、周りにもそれなりに馴染めていたと思う。

 うっかりすると顔を出してくる女性を性的な目で見てしまう視点は、かつて経験した(あの気持ち悪い)世界の反省をいかして極力排除していたし、仕事はもちろんプライベートの相談にも乗って、ときには時間をかけて恋愛の悩みを聞いたこともあった。そっとしてほしいと思われる人にはそれとなく気にかけていることは伝えつつも執拗に近づくことはしなかった。かつて飲み会が当たり前だった世界に「変更」されていた時代はずいぶん長かったようだが今はそうではない。だから飲み会を強要することはなかったし、むしろ女子会なるものに(男性ながら)呼ばれるくらいであった。余談だがそんな中間管理職は少し人気、いわゆるモテていたようで、何人かの女性社員とはお互いの同意を確認した上で夜の関係になることもあった。石橋はたたいて渡る。世界のルールにも大抵適応できている私は会社の人間関係についてもうまく適応し、万事うまくやれていたはずだった。

 しかしある時、ハラスメントを訴えられることになる。苦情内容から推測するに、プライベートの相談に乗っていた私の部署の女性社員と交際していた若手の男性社員からだと思われるが、通報は匿名性を保たれるため本当のところ誰から訴えられたのかはわからない。相談に乗っていた女性社員とはそれ以上の関係ではなかったが、彼女のほうはすでに交際を解消するつもりであったようだし、その後は私に乗りかえたかったらしい。彼女の真意に気づかず一緒に飲みに行ったのが泥沼の始まりであった。男性社員側の感情にも気づけなかったのは私の落ち度だが、とんだとばっちりだった。その後の私ができることといえば、前よりも人間関係に距離を置くことくらいであった。ちなみに部署は異動となった。

 後になって気づいた。そのときの世界は、飲み会を強要してはいけない世界などではなく、年長者が出しゃばってはいけない世界だったのかもしれない。

 ルールが明確でないときは実に多い。親切にポストやスマホにお知らせが届くわけではないし、世界が変わる音を認識できるといっても眠っている間に鳴っていれば当然しばらく「変更」に気づけないことだってある。

 今は休職をしている。たとえ世界の大抵の「変更」に慣れることができても、人間関係ですり減ってしまってはさすがに身体がもたない。なんにせよしばらく人との距離を置くことはつづくと思われるし、そもそも私からすれば「変更」に気づけないすべての人間が信用ならない。パートナーをつくる気になど当然、なれない。

 今回の世界はどれくらい続くのだろう。まだどんなルールなのかもわからない。考えてもどうにもならないとわかっていても、気に入っていた世界のあとではどうしても考えてしまう。

「今回は結構気に入ってたのにな……」

私はもう一度つぶやいた。

 

 

 

「そんな質問はじめてだよ」

 あすかからのチャットは数十分ほどで返ってきた。メール通知は来ていたはずだがメールなどはもはや用事がなければ見なくなっているので、チャットに気づいたのは心療内科の診察が終わり、近くのジョナサンで遅めの昼食としてハンバーグセットを食べていた数時間後であった。心療内科からは休職継続との診断が下りていた。

 

 あすかに会ったことはない。「ハピハピタウン」に掲載されているあすかのバストアップ写真はギャルのようでも人妻のようでもない。こういう店が書いている年齢はあまりあてにはならないが、二十歳と書いてあるのできっと学生かフリーターあたりなのだろう。左肩を前にしてやや前傾していている全身写真では体型はよくわからないが、あすかが所属している「マシュマロホイップ」はぽっちゃりした女性専門の店を謳っているのできっとふくよかなのだろう。顔のアップは鼻から下に手をあてて隠している。それなりにかわいく見えるが、マスクをしている人がかわいかったりかっこよかったり見えるのときっと同じで過度に美人を期待してはいけない。そんなことより、私は誰もが振り返るような美女ではなく普通がいい。普通であることに私はむしろ期待をしたい。普通にその辺にいそうな人であればあるほど日常の延長になる。私はさんざん男性的な性欲の気持ち悪さをわかっておきながら、すれ違う女性たちの値踏みをやめられない。日常に突如現れる暴力的な妄想とそれを実現したいと居座る欲求にあらがえない。だから日常を感じる普通を強く求める。日常を汚す欲望を満たしたい。

そういった汚いものたちが、はたして染みついた古い世界の価値観からくる「ソフトウェア」なのか、はるか昔から人間にそなわった根源的な欲求に由来する「ハードウェア」なのかは、もはやわからない。どちらにせよもう仕方のないことだと思っている。

 会社の人間と距離を置くようになってからというもの、以前にも増してそのような衝動に駆られるようになった。しかし道行く人にそういった視線を向けるわけにはいかない。これ以上世界から弾かれることは避けなければならない。そして結局性的な視線を向けて妄想を膨らませたところで結局何の解決にもならない。性風俗であれば金さえ払えば膨れ上がった衝動や欲求の都合のいい捌け口を得られる。社会に用意されたその純然たる事実に気づいてからというもの、その利用頻度は確実に増えていった。人間由来のストレスは人間でしか解決できないのだ。

 

 妄想といえば、私以外にも世界の「変更」を認識できる人間はいるのかと考えることもある。もしかしたらいるかもしれない。ただ、「変更」が認識できることと世界が「変更」を繰り返していることを表に出してしまうのは厳に慎まなければいけない。ありえない現実だとしても、映画や小説ではないのだから。

順応できない人間は、ただの変わり者として避けられるくらいならまだよい方で、虚言や精神的異常を疑われ社会的に排除の対象とされてしまうことだって考えられる。そういう人間がいれば私と同じかと言えばそうではない。ただの社会不適合者と私のような社会“難”適合者を見分けることは極めて難しいだろう。だからもし私と同じように「変更」を認識できるような人がいたとして、交流をもったりつながったりすることはおろか、知り合うことさえできないだろう。せめて認識できるもの同士の合言葉でもあればよいのだが。

 「この世界はおかしい」などと訴えても無駄でしかない。信じてもらうどころか、このわけのわからない世界を説明すらできない。どうしても世界に対応できなければおとなしく引きこもり、そして次の世界へ変わるまで辛抱強く待つほかない。

 何度か前の「豆腐を尊ぶ世界」(正確に言えば、豆類を絞った汁を凝固させたものを尊ぶ世界)であれば、たとえ豆腐を食べることが苦手であっても(アレルギーは仕方ないとして)表向きに尊ぶ姿勢をとっている限りは社会的に排除されるまでには至らなかった。豆腐の柔らかさのようにみんなにやさしい世界だった。「豆腐が尊い世界」だなんてばかばかしいが、そのばかばかしさを私は少し……いや、かなり愛していた。

 私からすれば世界は常に狂っているが、世界からすれば私こそ狂っているのだ。

 

「ミスドならフレンチクルーラーとハニーチュロかな。あとこれは絶対なんだけど、おかわりできるカフェオレ。ミスドで課題やること多いから」

あすかのチャットにはそう続いていた。かつての絶対的定番「トーフドーナツ」は、実際かなりおいしかったのだが、メニューにも人々の記憶にももうない。

「ミスド以外だと?」

「ドーナツってミスドしか食べたことない」

「クリスピークリームドーナツも結構おいしいよ」

「近くにお店なくて。食べてみたい」

「じゃあさ、今度あすかさんの予約入れるから、その時買ってくよ」

「ほんと? うれしい!」

「じゃあまた」

「ありがとう! またね」

 

♩~(夕方の訪れを告げるチャイムが鳴る)

 

 

 

 心療内科では適応障害と診断されている。かつてのわけのわからない気持ち悪い世界で引きこもっていた頃の私も、おそらく適応障害だったと思われる。順応できる世界ばかりではない。適応障害はいつだって私の隣にいて顔を出す機会をうかがっている。

 

♩~(スマートフォンの着信音)

 

「こちらカワグチ様の電話番号でお間違いないでしょうか」

風俗を利用するときは偽名を使っている。カワグチこと川口は申し訳ないがかつての後輩の名字から拝借している。川口かと問われたということは、あすかの店からの電話なのだろう。

「はい、そうですが」

確認が済み一呼吸置いて、ボーイだか店長だかわからない電話先の男が口を開いた。

「マシュマロホイップでございます。本日はあすかさんのご予約にありがとうございます。今日はあすかさんが性病検査の日でございまして、今病院に行っているとのことですが、そちらが大変込み合っているようで少々……一時間ほど遅れてしまうかもしれません。大変申し訳ございません」

なんだ、そんなことか。

「全然かまいませんよ。ゆっくり来てくださいとお伝えください」

「ありがとうございます。つきましては、オプションを一点サービスさせていただきます」

「それは……かえってすみませんね。ありがとうございます。では……」

 

秋に差し掛かり、涼しいと感じる日も多くなってきた。この日、あすかと会う以外の予定はない。午前中にあすかの店から予約時間変更の電話をもらっていたが、私はすでに住んでいる街から電車で五駅下った県内有数の繁華街のホテル街に予約時間よりも数時間早く到着していた。夕方からは雨の予報ということもあり、昼を回ったばかりだがすでに空は曇っていた。私はスーツケースを引き、ネットで調べたホテルを目指す。幸い早く入室したとしても定額で利用できるサービスタイムからはみ出すこともなさそうであるし、私は早めにチェックインすることにした。早く来たら来たで、やることがある。

今回、あすかと会うために入ったホテルはモノトーンで落ち着いた雰囲気のラブホテルだ。建物は古そうだが内装は新しい。割と最近改装をしたのだろう。内装や雰囲気は部屋ごとにランクがあり、高いほどよりおしゃれになっていく。せっかくなら一番グレードが高く広い部屋にしたいところだったが、先客がいたようだ。フロントに確認すると泊りの客のためすぐに空くこともないようだ。しぶしぶセカンドグレードの中のいちばん装飾の少ないシックな部屋を選んで入ることにした。妥協した結果ではあるが、部屋の壁にあるクラシカルな間接照明のランプが割と気に入った。テレビのような大きな液晶モニターの六〇五号室をタッチし、フロントでキーを受け取る。上り用エレベーターで六階へ上り、入り口の部屋番号ランプが点滅している六〇五を目指す。どうやら突き当りの角部屋のようだ。

部屋に入り靴を脱ぎ、内扉を開けるとこげ茶色の木目の内装をした写真の通りの空間が広がっていた。壁の間接照明も写真もままだ。幾分暗くも感じるが、ラブホテルなので問題はない。

 あすかがこのホテルに到着するまでまだ二時間ほどある。マシュマロホイップにホテルの六〇五号室に早めに入ったことを伝え、マシュマロホイップから部屋の固定電話に折り返しの電話をもらって入室の確認を済ませた。

私はスーツケースからナイロンでできたグレーのメイクポーチを取り出した。それから黒のワンピースと黒のタイツ、ボブカットにそろえた金髪のウィッグを取り出した。

 まずは洗顔をする。顔表面の汗と皮脂を軽く落とす程度に。ホテル備え付けのフェイスタオルで顔を拭く。ごわついていて無香の、ホテルのものらしいタオル。

ワンピースにそでを通し、タイツを履く。ワンピースは堅い体型を丸みの帯びた柔らかいシルエットで、タイツは隆起した筋肉の輪郭をぼかすように包んでくれる。

ぎちぎちに詰め込まれているポーチから、ひとつひとつ慣れた手つきで順番にメイク道具を取り出していく。

目の下と頬にコンシーラーを載せ、隈と肌の凹凸を目立たないように均していく。リキッドファンデーションを顔全体にのばして顔全体を明るく整える。ブラウンのアイブロウで眉の輪郭をつくり、それよりもいくらか黒味があるアイラインをまつ毛とまぶたの際に引いて目元を際立たせる。コンタクトを水色のカラーコンタクトに付け替える。ビューラーでまつ毛を持ち上げ、マスカラでジグザグになぞって視線の集まる目元が完成する。唇が薄くなるようピンクのリップは細く塗り、オレンジのチークを頬に軽く載せる。最後にウィッグを被り、ホテルに備え付けのストレートアイロンで綺麗なラインになるよう毛先を整える。突貫工事だが、アナログ加工としては十分だ。

 スマートフォンのカメラアプリを起動して、ベッドで、ソファで、バスタブで、私は写真を撮る。消す。撮る。消す。撮る。どんなにメイクをしても、着飾っても、自分が輝ける角度はそう多くない。偶然撮れる奇跡のような一枚を求めて、何枚も何枚も撮っては消す、を繰り返す。ポーズを決めては自然体に戻す。繰り返しの中で消さずに残した数枚から、さらに絞り込んだ三枚を美肌フィルターと輪郭調整でデジタル加工し、保存する。突貫工事を誤魔化すデジタル加工は欠かせない。本当の工事と異なるのは明確な終わりがないことだが、止めどきを見誤れば人間でなくなってしまう。ロボットが人間に近づくと迎える「不気味の谷」に人間が陥ることもある。シリコンのような肌や宇宙人のような目には惹かれない。リアリティのある姿を追求するならば、こんなもんだろうと思える引き際は大事だ。

液晶画面の中でどんなに努力を重ねたとしても到達できない、私に少しだけ似ている存在しない私がこちらを見ている。今回も一応の満足感を得ることはできた。

ウィッグを脱ぎ、洗面所へ向かった。用意されているアメニティからクレンジングオイルを手に取り、私はメイクを落とした。さっき洗顔で使ったタオルで顔を拭きながらどうせだからシャワーも浴びておこうかという考えもよぎったが、折角なのだからあとであすかと浴びればいいかと思い直し、元の服に着替えなおした。

ラブホテルは私にとって都合の良い撮影スタジオでもある。照明、アメニティ、場合によっては小道具まで、さまざまなものがそろっており、なおかつ一人でも入ることができる。

私は女装をしている。女装は休職してから始めた。なんとなく。ただなんとなく始めた。強いて言えば、自分を自分でないものにしたいという気持ちがあったのかもしれない。どんなに努力をしてもなれない理想の姿は画面の中だけで実現する。結局は何者にもなれない虚しさを感じつつもやめられない悪癖となっている。

この顔をアイコンにしたSNSでは、私のことをかわいい女の子だと勘違いした男たちから、ワンチャンあるかもしれないと生ぬるい鼻息がかかったDMが届くが、全部無視している。女装も見抜けない哀れな男たちよ、一生同じ場所で息巻いてろ。

 

 約束のドーナツはすでに買ってある。ホテルに入る前に駅ビルの一階にあるクリスピークリームドーナツで定番のオリジナルグレーズド二つと期間限定のチョコがかかっているものを買っておいた。

 

 ♩~(ピンポーン)

 

 ドアベルが鳴り、私はドアのカギを開けた。あすかが立っている。期待通り普通の女の子が来た。

「遅くなりました。はじめまして」

「はじめまして。お待ちしてました。どうぞ」

「失礼します」

 急いで来たのかもしれない。あすかは少し肩で息をしている。ジャケットをハンガーにかけ、淡いピンクのニット姿をあらわにした。

「あらためまして、あすかです。本日はよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

さっきまで私が撮影に使っていたソファにあすかは腰を下ろした。私は少し離れて横に腰かけた。

「すみません、さっそくですが先にお代を失礼します。二万二千円お願いします」

私は鞄から財布を取り出し、ぴったりの金額を支払った。

「ありがとうございます。それではお店に電話入れますね」

鞄からスマートフォンを取り出した。

「あすかです。お客様のお部屋に入りました。はい、はい」

通話を切りタイマーをセットし、スマートフォンを鞄に戻した。あすかが私のほうに向きなおる。九十分で予約をしているので、おそらく八十分くらいにアラームはセットされたのだろう。

「今日は遅れてすみませんでした。お店の人に聞きましたけど、全然いいよって言ってくださったとか」

予定があって急いでいたわけではないし、もともと休職中の身。時間には余裕がありすぎるほどある。そもそも、今日の目的はあすかで心身共に満足することだ。それさえ満たされれば時間などどうでもよいに等しい。

「全然大丈夫です。それより、ドーナツ買ってきたので食べませんか?」

「本当に買ってきてくださったんですね!嬉しいです。……って、はじめから箱が見えてましたけどね」

「だよね、バレバレ」

箱に入っているオリジナルグレーズドをホテル備え付けのコーヒーソーサーへ移す。

「これを電子レンジで八秒」

「へー。あっためるんだ?」

「そうそう、あっためるとできたてのおいしさが味わえるよ。箱にも書いてある」

「ほんとだー」

たとえこの時間が仕事であっても、あすかは純粋に感動をしているらしい。素直な反応が見られるのはやはりうれしい。

 

♩~(電子レンジの取り消しボタンを押したときの音)

 

十秒にセットして回し始めた電子レンジを、二秒残して取り消しボタンを押す。そうしてドーナツの載ったソーサーを取り出した。  

 

「んー! おいしい! ドーナツの概念が書き換えられたよ!」

「でしょ」

 そんな風にドーナツを楽しんだ私とあすかは、その後もお互いの会社や学校などの日常のことや休日の過ごし方、最近はまっているスイーツの話で盛り上がった。あすかは二十一歳の学生。「ハピハピタウン」のプロフィールは入店した時のものから変わっていないそうで、たとえこのまま仕事をつづけたとしてもずっと二十歳のままになりそうだと。

「お店の人が変えるのがめんどくさいだけかもしれないけど、お客さん的にはやっぱり若い子がいいんでしょ?って言ってるみたいで少し複雑」

「あんまり気にしないけどね」

「そう? あと、チャットでも言ったけど、ミスドで結構課題やってるんだ。今年は特に学校が忙しいから今年はそんなに仕事も入れないんだ」

 そんな話にうんうんと相槌を打つ。実際ここまで若い女性とは話す機会も久々だったので興味深い視点でもある。チャットの通り、話しやすくて安心する。私は女装のことを打ち明けた。

「えっ? 女装? 私、女装する人に会ったの初めて! 結構かわいく写ってるね! せっかくなら女装のままでもよかったのに」

 次の予約のときは女装のまま会うことを約束した。しかし私は女装姿を、写真を通して以外に見せることはしない。あすかとはもともと今回限りと思っているのでこの約束は果たされることはないだろう。

 

「いけない、もうこんな時間。そろそろはじめましょ」

「お話が楽しくてついつい盛り上がっちゃったね」

 嘘だ。私はずっと日常の延長のような時間の中で今日までしばらく抱えてきた衝動と欲求を隠すことなく、吐き出すタイミングを探っていた。いそいそと服を脱ごうとするあすかを制する。

「あのさ、嫌じゃなければ、服のままハグ……したいんだけど」

 道行くその辺の女性にハグなどできるわけがない。このような機会を逃してなるものか。もちろん、たとえ身体を提供できてもプライベートとの接点である服に触れて汚(けが)されてほしくない人はいるだろう。だから、断りを入れるのは一応の礼儀だ。

「えっ? ぜんぜんいいよ? むしろさっき急いでたから汗かいてるけど……」

 お店のスタッフには急いで来なくてよい旨伝えていたはずだが、そこまでは伝わっていなかったのだろうか。もしくは、伝わっていてなお急いで来てくれたというのだろうか。金が絡んでいるし私の後の予約のこともあるのかもしれない。しかしそれを込みにしても適当に済ますことだってできたはずだ。私同様不器用なのだろうか。ともあれ、健気さを感じてしまう。

「ありがとう。じゃあ……」

「次の予約の時に」と嘘をついたばかりだが、この時の私は心からありがとうと言っていた。私の腕があすかの肩から二の腕を、掌が背中のやわらかい部分をとらえる。本当だ。ピンクのニットはところどころほんのりと湿っぽい。少し強めに抱きしめる。

このやわらかな身体を生んだ母がいて、愛し育てた人がいることに思いを馳せた。友達の輪の中のあすかを思い描いた。私は今日あったばかりのまだよくわからない女を、今だけは愛したいと感じた。

 愛するのに、どれほどの情報が必要なのだろうか。相手をよく知らなければ愛してはいけないのだろうか。金が絡んでいたら愛してはいけないのだろうか。性愛という言葉が表すように性と愛は結びついているのではないだろうか。むしろ性欲を満たすだけでは得られない愛し愛されるよろこびを私は得たいのではないのか。そもそも愛とはいったい何なのか。そんな思いが抱きしめている掌と腕から、肩、胸へと伝わり、そして鼻腔、目、後頭部へと伝わったとき、数日間大事に抱えてきた暴力的な衝動だとかを包み始めた。私は愛に従い、今だけの愛だと確認するように惜しむように、あすかを愛することにした。

 

 

 

愛しあうごっこが終わり二人は向き合い横になる。私の腕はあすかを直に包み込む。

「知ってる? ミスドのカフェオレってホットはおかわりできるけど、アイスはおかわりできないんだよ」

 私が激しい後悔の渦中にいることも知らずあすかは言った。知らなかったし、心底どうでもよかった。目の前の女をどうにかしてやりたいという思いをコーティングしていた愛のようなものはすでに消えている。目の前の一人の人間を愛おしいだとか大切にしたいだとか思った自分も、この子の中で自分がいい人であってほしいと願う自分も自分だが、金の力を使って暴力的な衝動を他人で解消しようとしたのも、またどうしようもなく自分なのだ。いま、この自分が目を覚まして不満をぶちまけている。あすかにどう思われても構わないと腹を括ることと相応のペナルティを受けるという覚悟を決めれば、いまからでも衝動にまかせて酷いこともできるのではないか。それに、そもそも私はカフェオレをホットしか飲まない。

 

♩~(スマートフォンのアラーム音)

 

「アラーム鳴ったから、あともうちょっとだね。シャワー浴びよ?」

 最初のおしゃべりに時間をかけすぎた。いま、私の中に活けたドーナツがもたらした話題の華が私を笑うように咲き誇っている。

 

シャワー中もあすかは続けた。

「外、もう雨降ってるかな? 雨、やだなぁ。こんな世界変えられたらいいのに」

 あすかは後悔と反省と葛藤の渦中にある私のことなど気にしていない。

困っている人を何度も助けているのだから、私だって助かりたい。やさしく接したのだから少しくらい返してくれたっていいじゃないか。ドーナツもあげたんだし。いままで頑張ってきたんだから、たくさん損してきたんだから、ご褒美があったっていいじゃないか。

あすかは続ける。

「でもさ、世界を変えるスイッチなんてないもんね」

 いや、世界は「変更」される。どんなタイミングでどのようにどうして変わっているのかはわからない。勝手に変わってるのかもしれないし、誰かが変えているのかもしれない。たとえば世界を「変更」したい勇者がいて、そいつが魔王を倒したごほうびとして世界を「変更」しているのかもしれないし、神様たちがトランプの大富豪かなにかをしていて、革命が起こるたびに変わっているのかもしれない。もしかしたらドラえもんの「もしもボックス」やドラゴンボールの「神龍」みたいに、未知のテクノロジーや魔法のような力で変えているのかもしれない。大勢が変化に順応できる中、バグのように私のような存在がうまれる理由も意味もわからない。いずれにせよ私には、いや、人には世界を変えるような力などない。私は変わっていく世界の中で振り回され続け、見つめ続けるただのモブだ。

「ここのお仕事も嫌じゃない……っていうか、むしろいろんな人と話せて楽しいからお仕事も続けながら、勉強とか資格とか地道に努力してさ、そうすれば少しだけど世の中も変えられるんじゃないかなって思うんだよね」

 私は知っている。努力は報われない。世界の「変更」によってすべてが無駄になることはちっとも珍しくない。若いっていいな。無邪気に世界を変えたいだなんて思えるのだから。喉にちくっとした痛みを感じる。もう話題を変えよう。

「そうだ、あすかさんの好きなおでんの具ってなに?」

 

「えっと……ごめん、おでんってなに?」 

 

 

 

 バスルームを出て着替えながら考える。あすかはおでんを知らなかった。いや、おでんが世界から消え、おでんを知らない人間へと順応したのだろう。おでんが消えるなんて何の因果だろうか。消えたところで誰も得らしい得はしないはずだ。誰かの意思がはたらいているとすれば、その誰かはきっとおでんに村を焼かれた者に違いない。

いつか世界におでんが復活するまで私は好きなおでんの具を聞くことで話題を変えることはできなくなった。だが特段おでんに思い入れがあるわけではないので、それまでは別の何かで代用するとしよう。今回の順応は簡単そうだ。うどんとそば、どっちが好き? とかにしようか。あまりに素っ頓狂な世界の「変更」に、着替えが終わるころにはもやもやとくすぶっていた目の前の女をどうにかしてしまいたいという欲求は霧散していた。

 ホテルの部屋を二人で出る。手をつなぎながらエレベーターに乗る。フロントへキーを返却し、ふたたび手をつなぎホテルを出る。

 あすかと一緒にいられるのはここまでだ。

「今度は女装みせてね」

「そうだね」

「待ってるよ」

 手を解く。

「それじゃあ」

 手を振る。

「ドーナツ、ごちそうさま。今度はさ、ミスドも食べようよ。トーフドーナツ」

 

 

 おしまい


※note掲載に際し、改題

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