クララとお日さま考察(サイコパス性に着眼)
「クララとお日さま」はカズオ・イシグロが近未来の世界を描いたSFだが、
メイン設定
人工知能を持つロボット「AF(人工友達)」が存在している
ほのめかされる設定
”向上処置”を受けた者と、受けていない者の分断
との2つから構成される。
向上処置とサイコパス性
・向上処置”を受けた人間 ⇔ 受けていない人間
・新型のAFであるB3型 ⇔ 旧型のAFであるB2型
と対比されるように書かれている。
知能とサイコパス性が高い者
認知と想起に優れているが共感に乏しいB3型、”向上処理”を受けた人間
能力は劣るが共感力が高い者
認知は劣っているが共感性は高いB2型、向上処理を受けていない人間
現実との対比
現代社会でも、計算や論理的思考に優れるエリートが金と権力をどんどん独占していく傾向にある。
彼らは合理性や効率を追い求めるあまり、時に人間味を失い、弱者や困難に直面する人々の苦しみを「劣っているから」「自己責任だ」として切り捨てていく。
カズオ・イシグロはそれを寓話的に描いていると感じた。
社会的地位が高い者ほどサイコパス的な行動をとる現象は、誰しもが社会生活で経験があると思うが、
・権力を持つ人は、他者の視点を理解するための共感力が低下
・他者の感情や苦しみに対する反応が鈍くなる
・自分の意思や利益を優先しやすくなり、他人のニーズや意見を軽視
・勝ち負けや、利に敏くなる
これらの特徴を、作中でも”向上処置”を受けた人間・新型のB3型AFが備えている。
向上処置済みなのは誰?
推測だが、ジョジーの父親は向上処理なし、母親は向上処理ありだと思う。
・ジョジーとリック
・母親クリシーと父親ポール
は鏡像になっていると思った。
作中の登場人物がそれぞれどちらに属するのか、以下のように推測した。
能力は劣るが共感力が高い者
・クララなどB2型のAF
・ジョジー(病気が治る前)
・リック
・父親のポール
・店長さん
知能とサイコパス性が高い者
・B3型のAF
・ジョジー(病気からの回復後)
・母親のクリシー
・交流会の子たち
ジョジーの父親と母親のやりとりは、リックとジョジーのやり取りに似ており、鏡像になっていると考えられる。
父親ポールは優劣以外にも多様な観点が見えており、母親クリシーは優劣や成功失敗以外の観点が見えていない。
(父親ポールは「新しい視点」に言及するが、母親クリシーは「一流」という優劣の観点でしか物事を見ることができない)父親ポールはクララと対等に話す共感能力があるが、母親クリシーはクララに指示を出す等シーンが目立つ
(感謝の気持ちを伝える場面もどこか形式的だ。)母親クリシーが父親ポール側の考えをまったく理解できない(共感能力が低い)のに対し、父親ポールは母親クリシーの内面をかなり深いところまで理解できている(共感能力がある)。
また、母親クリシーの、クララをジョジーの”継続”とする計画においても、重視されているのは自身が「子どもを失いたくない」という点であり、
ジョジーがそれをどう捉えるか(自分のコピーが自分の人生をある意味乗っ取り、継続することを望むか)という点、ジョジーの立場や気持ち等は一切考慮していない。
結末はハッピーエンド?
美しい物語だったという感想も多く見かけるが、
私の結論として、「クララとお日さま」の結末は、
客観的にはバッドエンドだと思う
情緒や共感が捨てられ”向上処理”済みの合理的なサイコパス性に”置き換え”られていく
ただ、
クララの主観だけはハッピーエンド
AFは主人を肯定するように設定されているが故の、認知の歪みによる幸福
ジョジーは父親ゆずりの共感能力を持っていたがゆえに、身体の”向上処置”へ対する免疫反応として病気になっていた。
病気から快復し、身体が”向上処置”を受け入れたジョジーは、父親やリック側のとは道を分かれ母親側の道を歩むことになった。
最終的にジョジー自身も”向上処理”による病気を乗り越え、完全な”向上した”人間となる。(共感性を失う)
そして、クララは、”向上した”ジョジーと母親によって破棄され物置にいる。
リックは「ジョジーが大学へいっちゃったらさ・・」と、母親クリシーがあまりクララに優しくしないであろうことを心配している。
ジョジー「クリスマスで戻ったとき、あなたがまだ家にいたら」とクララが破棄される可能性がある事を知っていて、その上でそれを止めようともしていない(無関心)。
クララは、外にとまった鳥を見て、「わたしの様子を見させに、リックが送ってよこしたのかしら」と考える。リックなら様子を見に来る可能性があると思っていて、ジェシーが様子を見に来ることは期待はしていない。
クララはAFなので自らの所持者に批判的な思考はもたないが、こういった細部からクララを”置き換え”ても平気な母娘の姿が嫌でも垣間見える。読んでいて非常に辛かった。
ラスト、再開した店長さんの歩き方が、「一歩踏み出すごとに左側に少し傾くような」歩き方に変わっている。
これは病気だったころのジョジーの歩き方と同じであり、店長さんが後天的に”向上処置”を受けた可能性が示唆されている。
クララは店長さんが、「最後にもう一度振り向いてくれることを期待したがそうはならず」、つまり店長さんの情緒は低下してきており、店長さんは「建設用のクレーンの方を眺めて」いるシーンで終わることから、
”向上”した側へ向かってくことが示唆されている。
クララが大切に思っていたジョジー含め、社会全体が”向上”した側へ向かっていくラストはバッドエンドだし、この物語自体が現実世界のメタファーでもあるので暗鬱な気分になった。
引用先より「それが母クリシーと父ポールのどちらから引き継いだものかはわからないが。」
については、ジョジー父母それぞれのクララとのやりとりが正反対であることから、父親ポール側から引き継いだものだと思う。
前述したように、
父親ポールはクララと対等に話す共感能力があるが、母親クリシーはクララに指示を出す等シーンが目立つ。
細かい考察
P23
ショーウィンドウの前でAFをひたすら眺めるだけの、AFを手に入れることのできない子供たちがいることが述べられている。
手に入らないのは家庭の金銭的な理由であると推測され、
富める者はAF(友達)をお金を使って得ることができるが、
お金がない家庭の子は友達(関係)すらなかなか得られない。
現実でも目にする光景である。
P32
すでに買われていったAFが店の前を通ることがほとんどない事を疑問に思うクララ。
AFたちはお店の前を通らず反対側の道路を通る。
お店の前を通ることが有っても、目を背けるか足早に通り抜けていく。
クララはその理由を、
子供たちが「新しいAFに乗り換えるのを恐れているのではないか?」
と考察しているが、その考察はおそらく正しい。
物語の中盤でも、”向上処理”を受けた子供たちがAFをモノのように扱い、
(愛着ではなく)優劣のみで価値を決める場面が描かれている。
AFを購入できる家庭は”向上処理”を受けた裕福な者の家庭なので、
あっさりと新型への置き換えが行われるだろうと旧式のAFたちは怖がっている。
P63
新型であるB3型のAFが、旧型のB2型から距離を置こうとしている様が描かれている。
距離を置こうとする、線引きをしたがる、優劣に敏感、旧型を見下す。
新型のB3型は、優劣で物事を捉えている。
優劣に敏感な者は、劣等なものを自らから線引きしようとする
P106
この時点でジョシーは、”向上処置”を受けた子供たちとの交流会にあまり前向きではない。
「あの連中」と呼んで嫌っている様子が見られる。
また、ジョシーの母親クリシーの台詞、
「私達のころは、大学に行くまでだって毎日いろんな子と一緒だったけどあなた達の世代はそうじゃない。」
より以下が推測される、
・母親の世代も向上処置は存在していた(「いろんな子」という言葉から存在が伺える)
・母親クリシーもおそらく”向上処置”を受けている
・が母親クリシーはの時代は向上処置を受けていない子とも普通に交流していた。
P127
クララの能力を試そうとする”向上処置”を受けた子供たちと、
そのテストに乗らないクララ。
クララは能力はあることを示すことができるがそうしなかったのは、
ジョシーの気持ちを推測していたからではないだろうか。
クララは共感能力が高く、優劣以外の視点でも物事を見ることができる。
(優劣という枠組みを外側から俯瞰できる。)
だからクララは「ジョシーはそもそも私に能力の有無テストに乗って欲しくないのでは?」
と考え、乗らない(フリーズ状態)という選択をしたのかなと思った。
ここは色んな解釈が可能である。
P134
クララはジョシーの、
(B3方を)「買うべきだったかなって、いま思い始めたこと」
という言葉を思い出している。クララは、この交流会の中でジョシーが、
”向上処置を受けた側”(サイコパス側)と、受けていない側の間を揺らいでいることに気が付いている。
リックの「連中からジョシーを守ってやらなくちゃ」からも、
ジョシーが揺らいでいて、向こう側に行ってしまいかねない状態であることが分かる。
P161
ジョジー母親は、父親について、
「優秀だったけど置き換えられちゃったの、みんなと同じで」
と発言している。
「置き換え」というものが常に発生していることから、
絶え間なくさらに優秀な者が現れ、相対的に劣った存在になった者が、「置き換え」られていっていることが分かる。
P167
クララが、ジョシーの姉サリーが亡くなった理由を尋ねると、
母親クリシーの「目つきが変わり、口の周りに残酷な気配が現れた」のは、防衛反応であると考えられる。
人間は指摘や批判を受けたとき、(特にそれがアイデンティティに関わる点であるほど)防衛本能が働く。
相手の言葉を脅威と感じ、自己を守るために攻撃的な態度や表情をとる。
母親クリシーについて以下の2点が推測される。
・サリーに”向上処置”を受けさせ結果死なせたことに、無意識下で罪悪感を感じている
・同時に、子供に”向上処置”を受けさせる決断にアイデンティティに近いレベルの信条も置いている
P177
母親クリシーと2人で滝を見て帰ってきたクララ、
留守番していたジョジーは明らかにクララに対してよそよそしい態度になっている。
ジョジーは、「いい友達ってことでしょ?」と口で言いつつも、
態度では「クララなんか買わなきゃよかった」のようなニュアンスを出している。
おそらくこの時点ですでにジョジーは、
自身が死んだら”クララに置き換えられるかもしれない”ということに薄々感づいている。
母親とクララの2人での外出は、ジョジーに自身の死後に”置き換えられた”光景を想像させるに十分なものだった。
それがクララへのよそよそしさに繋がっていると考えられる。
P201
ジョジーの書いた絵にリックが台詞を入れる。
水滴のような形をした人から出ている台詞に以下の台詞を入れたリック、
「利口な子には形がないように見えたって、形はある。ただ隠してるだけ。ふん、誰が見せてやるもんか」
対してクララはこの水滴の子はジョジーだと推測した。
・ジョジーが交流会の子たちに合わせて自分の振る舞いを変えていること(水滴のように)
・リックはジョジーの中に「形」があると信じている(変わらないジョジー自身が)
しかしジョジーは交流会の子たちに行動を合わせるのを100%否定的には捉えていないようだ。
社会に適応するという意味で「大人になる」と表現してもいる。
適応の過程で(知能とサイコパス性を獲得する過程で)なくなっていく「形」を、
リックは認識で来ていて、ジョジーはこの時点ですでにあまり認識できなくなっている。
(P284
ここは何度読んでも理解できない。
ジョジーと母親は一緒に寝ていたということ?
だったらどうしてジョジーは「ママをよんで!」と言っていたのだろう?)
P303
ジョジーの父親ポールは、エンジニアという職業を追われた”置き換えられた”存在で、
社会の主流からは完全に外れている。同じように”置き換えられた”人々とコミュニティをつくって生活している。
しかし父親自身は、「置き換えられた」ことを肯定的に見ている。
社会の主流に娘を乗せようとする母親と、社会の主流に批判的な父親で対比となっている。
父親ポールは「新しい視点」に言及するが、
母親クリシーは「一流」という優劣の観点でしか物事を見ることができない。
P355
母親クリシーが父親ポール側の考えをまったく理解できない(共感能力が低い)のに対し、
父親ポールは母親クリシーの内面をかなり深いところまで理解できている(共感能力がある)。
なので、父親やはり”向上処置”は受けていないのではないかと思った。
そして、母親は”向上処置”を受けていると考えられる。
母親のジョジーに対する思いの強さだけは、”向上処置”のサイコパス性にそぐわないようにもみえるが、
そこは母の子への愛情という点でおそらく別枠になる。
P365
”置き換えられた”人々とコミュニティは身の防衛のために銃で武装している。
そして社会の主流からは「ファシスト」扱いされている。
これは現実でもよく見られる光景で、
社会主義寄りの党派が「ファシスト」のレッテルを張られたり、
レジスタンスが「テロリスト」のレッテルを張られたり。
だが実際には攻撃しているのは社会の主流である資本主義・実力主義側であったりする。
P371
父親の「君が今住んでるあたりだって、いつまでも平和とは限らんぞ」より、
”向上処置”を受けた者たちの構成する主流の社会が拡張していっているということが分かる。
より効率的で合理的なものに”置き換え”つつ利益を求めて拡張していく、
(土地や自然を金銭化されたくない原住民は攻撃されて排除される)
資本主義のメタファーであり、現実の鏡像である。
P372
ヘレンの台詞より、”向上処置”を受けた者による占有と”置き換え”を始めたのは、
親世代が始めたものであることがわかる。
P440
ジェジーの危篤時における母親クリシーのリックへの台詞。
これはこの作品の中でもおそらく上位に来る見せ場になるのではないかと思うが、
母親クリシーはこの場に至っても、
「勝った」等の勝敗、「大きい・小さい」などの優劣でしか物事を捉えていない。
恋人の危篤に直面しているリックの気持ちを考えていないのみならず、
生きられなくなりそうなジョジーの思いを考える台詞もないし、今までも皆無だった。
母親クリシーが”向上処置”を受けた側の人間であることは確定である。
また、クララをジョジーの”継続”とする計画においても、
重視されているのは自身が「子どもを失いたくない」という点であり、
ジョジーがそれをどう捉えるか(自分のコピーが自分の人生をある意味乗っ取り、継続することを望むか)という点、
ジョジーの立場や気持ち等は一切考慮していない。
P457
元家政婦のメラニアは安全な場所を求めてカルフォルニアのコミュニティの元へ行ったとのこと。
”向上処置”を受けた側による拡張と”置き換え”がさらに拡大していることが伺える。
また、リックは「ジョジーが大学へいっちゃったらさ・・」と、
母親クリシーがあまりクララに優しくしないであろうことを心配している。
そのリックの感覚はおそらく正しい。
クララは「奥様にはいつもやさしくしていただいています」と言うが、
それはAFは主人を肯定するように設定されているが故の認知の歪みだと考えられる。
P468
ジョジーは大学進学に置いて「秘密の目標」というものを設定している。
それを見ると、ジョジーはまだ変わっていないかのように思えるが、
「クリスマスで戻ったとき、あなたがまだ家にいたら」という台詞でさりげなく示されているように、
・ジョジーはクララが破棄される可能性がある事を知っている
・その上でそれを止めようともしていない(無関心)
ジョジーは”置き換え”にまったく抵抗を感じない”向上処置”を完了した人間になってしまったことが嫌でもわかる。
P473
クララは、外にとまった鳥を見て、
「わたしの様子を見させに、リックが送ってよこしたのかしら」と考える。
クララはリックなら様子を見に来る可能性があると思っている。
そして、ジェシーが様子を見に来ることは期待はしていない。
AFは主人を肯定するように設定されているからジェジーを否定的には捉えないが、
ジェジーに愛着のようなものは期待できないということを知っている。
P479
再開した店長さんの歩き方が、
「一歩踏み出すごとに左側に少し傾くような」歩き方に変わっている。
これは病気だったころのジョジーの歩き方と同じであり、
店長さんが後天的に”向上処置”を受けた可能性が示唆されている。
クララは店長さんが、
「最後にもう一度振り向いてくれることを期待したがそうはならず」
つまり店長さんの情緒は低下してきており、
店長さんは「建設用のクレーンの方を眺めて」いるシーンで終わることから、
”向上”した側へ向かってくことが示唆されている。