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第三信 他人と他人

<赤帯からブギーアイドルへの手紙>

君のいうすべてのことは君について語る――奇妙にも、特に君が他人について語る時に。(「邪念その他」『ヴァレリー全集4』佐々木明・清水徹訳、筑摩書房、1968年、p. 164)

書き出しを決めては放棄し、決めてはまた新たに書き出したことで、この返信は第一信以上に断片的、かつ部分部分で書き方も密度もバラバラです。第二信を渡り歩くように書いたので、任意な拾い読みこそふさわしいとも思います。渡り歩き、と言えど綱渡り。ブギーアイドルさんの駆け抜けるような洞察への抜け目のない返事ではありません。ですができる限りその力と速度に立ち戻るような引力と共振をつくりだそうという、手紙の読み手としての意志は貫徹したつもりです。

We Will Meet Again

また会いましょう、また会う(逢う)日まで。今年、どれほどこの言葉が苦渋の思いとともに発せられてきたか、想像もつきません。会話や文章の終わりに付け加えられるのが妥当なこの文句が、状況のなかで必然的に担う意味と重みに抗おうというわけではありませんが、この別れと再会の約束の挨拶から始めましょう。また会いましょう、また会う日まで。

「また逢う日まで」の歌手、尾崎紀世彦のエキゾチックな顔にどういうわけか魅せられていた時期がありました。十代の初めです。私はラジオっ子と呼べない生活をしていたので、晩の茶の間で、親が適当に点けていたNHKの歌謡曲番組で歌を覚えたのでしょう。ともあれ彼が『いいとも!』のテレフォンショッキングが出ると知ったとき(おそらく1995年の初出演時)は興奮したものでした。当時、私の周りのごく狭い範囲では「また逢う日まで」だけでなく、「圭子の夢は夜ひらく」「津軽海峡・冬景色」といった歌で底抜けに陽気になれる雰囲気もありました。前者の作曲者、筒美京平を発見するのは、その後、作曲業30周年を記念して発売された『HITSTORY~筒美京平 アルティメイト・コレクション』(ソニー・ミュージックレコーズ、1997年)と、そこにも収められた小沢健二「強い気持ち・強い愛」を通してでした。「渋谷系」という現象のなかでリスナーだった自覚もなければ、特にその名を追いかけたこともないのですが、このコンピレーションのデザインは渋谷系作品で重用された信藤三雄さんで、オザケンに関しては言わずもがな。自分もまた、筒美京平リスペクトの時代の流れのただなかに、知らずに置かれていたのかもしれません。
また会いましょう、We will meet again、とは4月初め、93歳のエリザベス女王の英国民へ向けたスピーチにおいて聞くことのできる慎み深い呼びかけと励ましでもあり、第二次大戦中のヴェラ・リンの流行歌「We'll Meet Again」に因んでいると思われるその引用の巧みさに、日本でも注目が集まりました(彼女はその後6月に103歳の大往生を遂げました)。もっともこれはキューブリックの『Dr. Strangelove(邦題:博士の異常な愛情)』のエンディング、核爆弾が炸裂するシーンで流れる有名な歌でもあって、それを知っている人たちにとっては、スピーチから黙示的な響きを聞き取ることになったのでした。

もうひとつの「We will meet again」を示したいと思います。デイヴ・ギルモアがギターを弾き、ブライアン・ウィルソンが書いたかのようなノスタルジックなメロディに乗せて、ハワード・ジョーンズやボブ・ゲルドフたちが三十年前に歌った「We Will Meet Again」です。参加したミュージシャンがカメラの前で、それぞれのスタジオから歌い、演奏するさまを見ると、それが理性的にはバラバラの時空をつなぎ合わせた映像で、重ねられた音楽も一発録りでないことが了解できても、あたかも世界同時中継を目撃するかのように、今日の動画配信サイトやSNS上でよく見かけるようになった、ソーシャルディスタンス social distancing の実践とともに行われる音楽セッションの光景と重ねずにはいられません。
1990年5月、16の国籍にまたがる292人のミュージシャンをフィーチャーしたルパート・ハインとケヴィン・ゴドレイのBBCでの一大プロジェクト、『One World One Voice(以下、OWOV)』が放映されました。50分超のノンストップの音楽と映像のなかで、「We Will Meet Again」はやはり終盤に位置します。上の映像はその抜粋です。OWOVはそもそもBBCが元10ccのゴドレイにその年の初めに依頼した企画ではあるものの(半年足らずの制作期間!)、これは1987年、元々は英国でマーケティング用語として発明された「ワールド・ミュージック」の実践のひとつのピークであり、同時にテレビとコマーシャルの時代の産物と言えるでしょう。ブギーアイドルさんの第二信のタイトルを踏まえるなら、この(プロモーション・)ヴィデオ撮影のため、ハインやゴドレイは「地球一周」のツアーに出かけ、さまざまなレコーディング・スタジオでミュージシャンと出会いました。もっとも、ニューヨーク、ダブリン、メイデンヘッド、ボックス、ロンドン、リオ、LA、ヘルシンキ、パリ、タンザニア、サンクトペテルブルクと、じっさいは訪れた土地のほとんどが西洋圏の都市部であったことが判明しています。ベルリン崩壊後間もないドイツが除外されていることに時代情勢を感じられるでしょう。「地球一周」は言い過ぎですね。しかし、ブギーさんにはOWOVのシンボルの一本の木をよく見ていただきたいです。緑の葉が世界地図になっていて、その周囲を黒人の身体がダンスするように、木々として囲んでいます。(このプロジェクトの音楽面のプロデューサー、ハインのサイトのOWOVの紹介では、詳細なクレジットとともに、非正規ながら第三者の投稿した件の映像が視聴可能です。2011年、DVDとCDが同梱されたOWOVのSpecial Anniversary Editionが発売されたようですが、こちらは未確認です。)

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2020年6月5日、環境の日 World Environment Day 、ゴドレイはひっそりとOWOV30周年のサイトを告知しました。おそらくは、ひっそりと。スチュワート・コープランドやロジャー・グローヴァーの短いメッセージが投稿されている登録者数五人のYouTubeチャンネルを通してこのサイトを発見したときは、失礼ながらこれらが公式のものかどうか一瞬疑ってしまいましたが、「我々がどこにいようと、誰であろうと音楽こそが我々の共通言語 our common tongue だ……そしてこれこそ我々が言わねばならないことだ。2020年でもこのメッセージは変わらない」という本人の力強いメッセージとともに、企画に関する貴重な資料が多数掲載されています。なお、30周年を記念した再リリースの計画が進行するなか、ルパート・ハインは告知の直前、6月4日に逝去しています。
この記念サイトでは、ゴドレイやハインを含む撮影・録音チームのスケジュールも公開されています。坂本龍一がプロジェクトに参加したのは1990年4月6日パリにおいてだったのか、と地球の表面を俯瞰しながら彼らのワールドツアーを追体験できるのです。

ところで、件のゴドレイのメッセージには、妙な一文が見られます。「これこそが、World Musicという用語が造り出される以前、その真の手本となるものだった」。どういうことでしょう? 英国は1980年代後半からワールド・ミュージックの主要な発信地であったはずなのに。たしかに日本盤も発売されたCD版『One World One Voice』(Virgin、1990年)のライナーノーツには、「ワールド・ミュージック」の文字は見当たりません。
サイトのさらに下部には「WE WILL MEET AGAIN」という副題とともに、ハワード・ジョーンズのメッセージも掲載されています。そこではルパート・ハインからの電話で出演が決まったことが明かされ、締めくくりには、家族や友人たちときっとまた会い、ハグできるはずだ、という願いが記されています。ジョーンズの「I’m sure we will meet again」が現在のパンデミックを背景に発せられたものであるのは言うまでもありません。

(似非)ワールド・ミュージックの源泉としてのタモリ

ジョー・ザヴィヌルの1980年代後半の歩みとその遺産を継ぐかに見える1990年代に登場したディープ・フォレストの危うい音楽的狩猟を敷衍して、ブギーアイドルさんは第二信に「悪意なく地球一周する人」と名付けました。悪意なく、とは軽薄に、と言い換えられるかもしれません。これを私たちは驚嘆すべきなのか、笑うことができるのか?
手紙のなかで紹介してもらった『Di•a•lects』『Black Water』は、発表された年――1986年と1989年――に関して言えば、先ほど述べたように「ワールド・ミュージック」の公的誕生を横断しています。ブギーさんも引用している『Black Water』に付されたジョージ・バトラー博士の誇大妄想のようなライナーノーツでは、明らかにその流れを受けて、オーストリアから合衆国へと大西洋を渡った西洋人、ジョー・ザヴィヌルを「プロモート」する狙いが隠されていません。

 他のどんな音楽よりも、ジャズは地球のすみずみにまでひろがり、多くの人々に共通の経験を分かち、芸術を生みはぐくんだ文化やものの見方に洞察力を与えた。だが、ジャズも移り行く間に変化を遂げ、デューク・エリントンがいうところの、世界のエスペラントに近づいていった。“世界の音楽”への流れ(the trend toward a world music)を例証できるのは、ジョー・ザビヌルをおいて他にはいないであろう。(日本盤のライナーノーツ対訳より引用)

ジャズは世界のエスペラントに近付いていった。今やジャズこそが世界を音楽的に表象可能なのである、という誇り高い宣言に読めなくもありません。ゴドレイのあのメッセージとは多少言い方もそれが発せられた文脈も異なるけれど、ここにも音楽共通言語観のようなものが提示されています。
バトラーの扇動的な言葉に先駆けること十数年、日本にもエスペラントならぬハナモゲラ語と称した、何か国もの似非外国語を流暢に操った男がいました。男は似非外国語だけでなく、ソバヤ、ソバヤ、と歌いながら擬似アフリカ民族音楽の演者にもなることができたし、ときにボサノヴァを歌って人を驚かせたこともありました(「アカイベベ」)。『Di•a•lects』の曲名にもなっている「メディスン・マン」とは呪術師、祈祷師のことです。日本のテレヴィ・メディアにおいてまさに1970年代後半のタモリこそ、「地球一周」を嘯けた呪術師、祈祷師であり、似非人類学者、似非民俗学者の役割を果たしていたのではなかったでしょうか。

 タモリの芸によって模倣されえない人物は、いまこの世に存在しない。日本・中国・アメリカ・ドイツ、そしてアフリカだろうがベトナムだろうが、タモリに出来ない言葉はない。
 職業においてもしかり、アフリカのナイロビ列車の車掌、中国のターザン、教養講座の大学教授、「陶器の変遷」「天気予報」「株式市況」「昼のいこい」「中国語講座」「新日本紀行」「北京放送」……なんでも出来るのだ。

このように豪語したのは、1977年の奥成達です(「怪人タモリ」『定本 ジャズ三度笠』冬樹社、1982年、p. 40)。ひとつの普遍言語を発明したわけではないが、何でも世界中の言葉を真似ることで、日本から動かず「普遍化」してしまう特異な人物。(ところでハナモゲラもソバヤもタモリ発案でないことには注意を要するでしょう。前者は山下トリオの中村誠一のインチキ外国語が伝承されたものと見なすことができますし、後者は1976年、作家河野典生宅における民族楽器を用いた即興のさい、坂田明が初めて発したものとされます。『タモリ2』(東芝EMI/Alfa、1978年)で「西洋音楽理論」をぶつことができるのも、クニ河内や村井邦彦の手腕あってこそ。)もっともらしく学者と共演してしまう後の教養人風のタモリではなく、模倣芸の頃のタモリには、ワールド・ミュージックの概念的萌芽が認められるのではないだろうかというのが、私の暴論です。

ポピュラー音楽研究と民族音楽学を専攻されている輪島裕介さんが強調するところによれば、80年代後半からの西洋主導で非西洋の音楽を紹介するワールド・ミュージック現象において、日本の位置取りは特殊なものであったということです。

「エスニック・ブーム」にせよ「パリ発ワールド・ミュージック」にせよ、「エキゾチックでオシャレな異文化」を消費する仕方において、日本という位置取りが問題化することはほとんどなかった。日本は無自覚のうちに「擬似西洋」として「エキゾチックな他者」である「非西洋」を目指す特権的な位置に同一化していたといえる。こうした視線を体現した音楽として、例えば坂本龍一の『Neo Geo』(1987)が挙げられる。そこではインドネシアのケチャや沖縄民謡が取り上げられているが、それら坂本が精緻に作りこんだサウンドに耳慣れない新奇な音楽要素を提供する、いわば「原材料」として扱われている。(輪島裕介「日本の「ワールド・ミュージック」」『事典 世界の音楽』 徳丸吉彦・高橋悠治・北中正和・渡辺裕編、岩波書店、2007年、p. 438)

Neo Geo、すなわち新たな地理学、新しい地図(Neo Geography)。ワールド・ミュージック・ブームのなかで特権的な「位置取り」は確保されたまま、その内在化の度合いはさまざまにせよ、日本は次の段階でいわば逆オリエンタリズムを志向することになります。キーワードはアジアです。この後の記述で輪島さんが取り上げるように、「日本のワールド・ミュージック現象が欧米の流行の模倣を脱して「アジア志向」を強めていくきっかけとなったのは、シンガポールのディック・リーと沖縄のりんけんバンドであった」(p. 438)。
暴論を承知でさらに言いましょう。渋谷系は日本におけるワールド・ミュージック現象の延長にあったと。沖縄音楽が「内地」のみならず、「アジアのなかの日本の音楽」として国際的に受け入れられる過程で、否応なくワールド・ミュージック化(も)したように、シティポップやJ-POP(じつは私はこの用語に未だに抵抗感が拭えないのですが、ここでは慣例的に使用します)が近年、擬似西洋-非西洋のエキゾチックな音楽として、かつてのワールド・ミュージックの生産と消費の構造を反復しながら「世界的に」流通していると。私にとって、タモリとピチカート・ファイヴはそう遠くにいないところにいます。90年代後半、東京、トーキョーと日本の首都がポピュラー音楽のなかで喚起される必要がなぜあったのでしょうか。後者のラスト・アルバムは「西洋音楽理論」がエキゾチックな日本を発見するかのような視点で制作されたとも言えそうな『さ・え・ら ジャポン』( ヒートウェーヴ、2001年)でした・・・。

中洲産業大学教授としての姿とワールド・ミュージックという同時代の現象を背景に命名されたかのような『タモリの音楽は世界だ』(テレビ東京、1990~1994年)の司会業をタモリが務めただけでなく、『ミュージックステーション』(テレビ朝日、1986年~)という長寿番組で結果的に――つまり受動的に――J-POPの後見人のような役割を果たしてしまっているのは偶然とは思えません。
この先も、タモリの音楽や芸がザ・ブームや山下達郎のように国際的に見出されることは起こりえそうにありません(そもそもテレビ・コメディは国民国家的なジャンルという宿命を負っていないでしょうか)。しかし、受動的に「擬似西洋」「非西洋」を体現することで逆説的にタモリが獲得してきた「日本的なるもの」(90年代のJ回帰(浅田彰・絓秀実)を踏まえるなら、「J的なもの」?)は、「日本における」ワールド・ミュージックの源泉として機能するでしょう。つまり、「日本的なるもの」の価値を再生産するための構造的な焦点として発見され続けるでしょう。安産、すっぽん、安産、すっぽんと妊婦を前にかつてタモリの音頭で客を前にコール・アンド・レスポンスがなされたのを思いだしてみること。「メディスン・マン」タモリにご利益を求めて人々は参詣したくなるのです。
脱線しすぎましたが、日本においてワールド・ミュージックが民俗音楽学の誤読をとおして知的に理解されてきた経緯と、タモリが四ヶ国語麻雀を演じながら一方で音楽学者の振りをできたことが、私のなかで冗談のように重なってしまうのです。

「日本のワールド・ミュージック」を考える際に上記の音楽実践の諸傾向[河内屋菊水丸の「カーキン音頭」、長谷川宣伝社『東京チンドン vol. 1』におけるチンドンの再発見と継承、吉田兄弟や東儀秀樹の「クロスオーバー」的アプローチ等――引用者註]と並んで重要なのは、それが一種の知的な運動であったという点である。非西洋音楽の享受を通じて日本の音楽的なアイデンティティを問い直そうとする姿勢は、小泉文夫、中村とうよう、平岡正明らが60年代から行ってきた、現代日本の音楽状況における対抗文化として非西洋音楽を位置付ける言論活動の流れを汲むものといえる。また、(…)80年代以降の英語圏の民族音楽学の重要な著作が、ワールド・ミュージック現象の文脈で紹介されたことは注目に値する。そこでは英語圏では異なる文脈に属していた民族音楽学の概念としての「世界音楽」と、ポピュラー音楽の下位ジャンルとしての「ワールド・ミュージック」が重ねあわされた。これは一面では混同であり誤用であるが、創造的な結合でもあった。(同上、p. 440)(強調は引用者による)

ところで、私が思うにブギーアイドルさんは、ワールド・ミュージックの消費の構造を熟知しながら、その一歩先も二歩先も進もうとしています。メジャーであれインディであれ、マーケットの力学にとらわれず眼光紙背に徹するように作品を構成する人脈の網の目を注視し、点呼を続け、過去を鋭く現在に提示するのをやめないのがブギーさんの強さです。ランボーが言ったように「私とは一個の他者なのです」。

東映およびスーパー戦隊が求め続けた「力」を見事に音楽として表現する能力を持つ小杉保夫さん、京田誠一さん、つのごうじさん、奥慶一さん、Project.Rの皆さん(特に山下康介さん、大橋恵さん、大石憲一郎さん)。このような方々が書かれた音楽を聴く時、僕は今一番心穏やかでいられます。
理由は分からないのですがどうしても新川博さん、戸田誠司さん、コモリタミノル(小森田実)さん、長岡成貢さん、CHOKKAKUさん、松本晃彦さん、岩代太郎さんといった歌謡曲、ポップス、劇伴のフィルターを通した「ハウス風の別の何か」にならないと身体が反応しないのです。

補記一 音楽のハイジャック

ブギーアイドルさんの紹介をとおして、鯔瀬史雄さんのnote「鯔を愛する男」をこれまで何度か開いてみたことがあります。その表題から乱歩の「押絵と旅する男」を最初連想したのですが、果たしてそのショートショートに登場する主人公は、内田百閒の小説の語り部のようではありませんか。建築史家、中谷礼仁さんの「不能なる「私」、「東京日記」論」を久々に読み返したくなりました。
「ブックオフショートショート」で驚くのは、そこでじっさいの曲が引用され、動画が埋め込まれながらも、音楽が偽書のように描かれるていることです。音楽をフィクション化する手並みの緻密さは、垣芝折多著、松山巌編の『偽書百撰』(文春文庫、1997年)を思わせます。ここでさらに『新蒸気波要点ガイド』(DU BOOKS、2019年)を呼び起こすのは無駄ではないでしょう。いったい、Vaporwaveの作品って素性確かならぬ偽書のようで、それについて噂し、「エッセンシャル」と銘打たれまとめられることで完成するのではないでしょうか。

ブックオフがリゾートか、あるいは極端な場合には聖地のように表象されるようになりずいぶん経ちます。少なくともそれらは、画家、林哲夫さんのブログで続けられているような古書日録とはずいぶん具合がちがいます。その評価は措いて、ブックオフ的想像力なるものがあるかのようです。しかし「何でもあり」あるいは「何か見つけられるかもしれない」という幻想を見させるブックオフにないものがあります。ラジオです。ラジオから流れる新譜です。
いとうせいこうさんは1990年から1992年にかけて、「短波ラジオ」の前に座りながら、現われては消える世界中の流行歌を紹介する(リークする、と表現した方がより適切でしょう)連載「世界の新譜」を『宝島』に掲載していました。曲も歌手もどれも知らないものばかり。ワールド・ミュージック・ブームの真っただなかなので、ディック・リーならぬビック・リーなんて一発屋もシンガポールから出てくる。胡散臭いことこの上ないですが、せいこうさんは流行歌の猥雑さを擁護する役を引き受け、その都度世界の時事にヴィヴィッドに反応した諷刺であったりパロディであったりするポップスの「反映論」を全力で展開します。連載がまとめられ『世界のポップス1991』(JICC出版局、1992年)という題で単行本化されたさいには、紹介曲の「発祥地」を対照させた「世界地図」も付されていました。

深夜ラジオの前に座って(インターネットを介さず!)、誰も知らない、言語も理解できない世界中の流行歌を孤独に集める行為は、今やリアリティを持ちにくい。平日昼間のブックオフ的散策の方がリアリティがある(ひとまずは)。「音楽を聞く私」が次にジャックする/される場所はどこでしょうか。

補記二 ワールドワイド・ワイルド・サイド

ナチスから亡命する直前、ヴァルター・ベンヤミンがフランス、パリで最後に脱稿した「歴史の概念について(歴史哲学テーゼ)」というよく知られたテクストがあります。そこでは、歴史の正史というものは支配者の側によって記述され、勝者に伴う「文化財」と呼ばれる戦利品は、文化の記録であると同時に、野蛮の記録でもあると言われています。ベンヤミンにならって、私たちがますます手軽に過去から参照する音楽は、文化財であるとともに、野蛮のドキュメントでもある視点を捨ててはならないでしょう。「だから」検閲を強めよ、公開をやめよ、という話では無論ありません。当時の誤認や偏見、あるいは作品成立における不正な手続きを問うことは、抑圧されてはならないし、過去の「正史」ばかり神聖視することが私たちを賢くしはしない、というごくあたりまえの確認です。この認識がなければ文化財の表象のレヴェルを一向に問えないし、一本の可能性の線すら満足に引くことはできません。

ニューエイジやワールド・ミュージックに現われる「世界」「自然」「人間」といったホーリスティックな概念や第三世界に純粋を投影するようなオリエンタリズム構造の疑わしさは指摘されてきましたし、ブギーさんも参照を促している、塚田健一さんの指摘するワールド・ミュージック制作における搾取構造は、その野蛮のドキュメントとしての側面にほかなりません。繰り返しになりますが、その視点を手放さないことで初めて、なおディープ・フォレストやポール・サイモンの歩みを肯定できないか、という新しい逡巡あるいは仮定が提出できるのだと思います。
たとえばかつての「サンバ・ヘギ samba reggae」の摂取が、シティポップ現象のなかでシティポップが日本から再生産される構造と相似的なのではないかと疑ってみること。

しかし最も重要なのは、アメリカ合衆国とヨーロッパの「ワールド・ミュージック・ブーム」である。そこにおける「アフリカ回帰志向」において、ブロコ・アフリカとその音楽が「伝統的で真正なアフリカの遺産」と「誤解」されて紹介された。ポール・サイモンやデイヴィッド・バーン、ビル・ラズウェル、ジミー・クリフなどのワールド・ミュージックの代表格から、マイケル・ジャクソンやペット・ショップ・ボーイズ、日本でも渡辺貞夫やザ・ブームなど、多くの音楽家がサンバ・ヘギを取り入れた。(輪島裕介「祝祭文化の政治性」『事典 世界の音楽』 徳丸吉彦・高橋悠治・北中正和・渡辺裕編、岩波書店、2007年、p. 363)

情報を売る喜劇人

あらためてコニャニャチハ。赤塚不二夫から始まり、タモリが続く。何について述べているのかといえば、劇作家、宮沢章夫の著書『考える水、その他の石[改訂新版]』(白水社、2006年)の文章配列です。本書は、タモリが発言し体現した「軽さ」が「八〇年代という時間」を規定した、という史観に立っています。対して「七〇年代は笑いにとって「退屈な時代」」(pp. 214-218)で、現在性を問える「六〇年代」の笑いが赤塚不二夫にほかなりません。「あの時代が、そしてあの「輝かしさ」が、いまを逆照射する。その意味において、誰が何と言おうと、赤塚不二夫の輝かしさは現在に存在する」(p. 10)。
まさに1980年に出版されたタモリと松岡正剛の対談本、『愛の傾向と対策』(工作舎)を引きながら、宮沢さんは時代を呪縛した二分法に着目しています。

 冗談で八〇年代は根が明るいか暗いかその差になってくると言ってるんですけど、考えてみればけっこうこれは意味の深いことで、ニーチェもひじょうによかったんですけれども、いま一歩、こう、カッとくるところの差というのは「冗談の欠如」というのがかなりあるんじゃないかとおもうんですな。[以上、『愛の傾向と対策』からの引用]

 対談のなかのタモリのこの発言が、八〇年代のある一定の「気分」を形成した。「明るい」「暗い」という二分法がまた別の二分法を生んだ。「軽い」「重い」。「薄い」「厚い」。おおむねこの二分法では、前者が肯定され、後者には何か「どんよりしたイメージ」が付与された。二分法を決定するその気分のなかに、八〇年代という時間が閉じられていたように思う。(…)
 第一に考えなければならないのは、この二分法が冗談から出発し、その冗談が浸透していった、この時代の底辺である。(「虚ろなスタイル――タモリの冗談から考える一九八〇年代論序説」『考える水、その他の石』pp. 11-12)

この時期は1970年代後半にバーの舞台できたえられた密室芸を引っ提げてメディアに登場した「密室芸のタモリ」から、今日まで続くサングラスをかけた「司会業タモリ」ひいては「文化人タモリ」へのイメージ形成の転換期、あるいは準備期に相当します(『愛の傾向と対策』のカバーに見られるのは紛うことなく前者)。周知のとおり、『いいとも!』の放映開始が1982年。詳細なモノグラフを書いた『タモリと戦後ニッポン』(講談社現代新書、2015年)の近藤正高によれば、1981年こそ、「すでにレギュラー出演していたNHKの『テレビファソラシド』に加え、四月には前出の『今夜は最高!』[日本テレビ]、一〇月にはテレビ朝日の『夕刊タモリ こちらデス』とタモリがメインの番組があいついで始まる」「タモリの年」に位置付けられます(p. 221)。1956年生まれの宮沢さんが、そのことを知らぬはずはありません。したがって、1980年の時点での「冗談」は予言めいてきます。上記の二分法で「明るい」「軽い」「薄い」が重視されるような、「気分」が支配的になる時代とは、消費者があらゆるモノをめぐって、その価値(商品価値)や機能ではなく、イメージを求め動く時代です。

 長々とこんなことを書いたのは、冗談の、というか、「笑い」の領域においても、この消費の構造があてはまるのではないかと考えられるからであり、そのことが、あの「二分法」を浸透させた八〇年代的な状況の底辺だと思われるからだ。
(…)
 タモリという人については、ずいぶん多くのことが語られてきたが、本質はこのことではなかったかと思う。「芸を売るのではなく、情報を売ってきた」のだ。そして、その意味においてと、限定的な言い方をすれば、彼は八〇年代を代表する喜劇人だ。(同上、p. 13)

上記に見られるように、宮沢さんのタモリ論の筆致は一貫してドライな対象から距離を保ったものですが、そのことによってタモリが絶滅危惧種が貴種のように描かれてしまう、タモリ論にありがちな崇拝の構造を脱しています。
ところで、ブギーさんが薦めてくださったこともあり、『誠壱のタモリ論[新装版]』(世田谷ボロ市、2013年)を著者本人から購入しました。石川誠壱さんのタモリ論は、1970年代にまで遡って、この稀代のタレントの出現の文脈を、すなわち彼がいかにお茶の間に定位しようとしていったのかを回想しており、リアルタイムでの視聴経験が『いいとも!』『タモリ倶楽部』『ミュージックステーション』によって代表されてしまう私のような世代にとって興味深いものでした。その筆致は著書成立の背景のちがいもあり、近藤正高さんの引用の多さと即物的な記述に対して、あくまでファンと証言者の視線に貫かれていますが、不思議なことに、「芸人タモリ」に密着するときでさえ、むしろ宮沢さんの「情報を売る喜劇人」という仮説を強めるように読めたことです(お笑いの面白さを語るのは往々にして野暮にならざるを得ないのだとしても)。つまり、『誠壱のタモリ論』はタモリの芸や立ち居振る舞いがいかに面白いかといった感想や分析ではなく、タモリが唯一無二のニッチなポジションをいかに確立していったかの記述に腐心しており、その効果として読み手には「タモリ」「タモリ一義」「ミスタータモリ」「森田一義」がプリズムのように名を変えながらもその実体は唯物論的に(!)虚ろな情報の錯綜体として映ったのでした。

補記三 ベタとメタ?

ブギーアイドルさんが、ジョージ・クラントン-マキタスポーツ(槙田雄司)という線を引きながら批判を差し向けているのは、常に炎上やハラスメントと隣り合わせの、私的警察とも呼べる言論が横暴を振るう、表現にとって自縄自縛の状況だと思います。おのおのが信じたいエビデンスに依拠し、それぞれの「信・真」に応じて棲み分け/分断が進行し、無意味なまでにSNS上で言論を見張り合っている。それが社会の批判的機能を果たすかといえば、むしろガス抜きに貢献し、差別の発露と補強に始終する。このような「地獄」では、コメディアンのツッコミは委縮するか空転し(あるいはそれに加担させられ)、ボケも力を奪われ、せめて穏当な冗談を言う人か無知な人として振る舞うことしか許されない・・・。「地獄への道は善意で敷き詰められている」というわけです。
Vaparwaveが論じられるさいのメタメタな視点には、たしかに自分も飽き飽きとしています。一方で、結婚指輪の件は知らなかったのですが、クラントンという人から感じてきたのは、Vaporwaveからの後退もしくは撤退で、いちはやくインディ・アーティスト然とした佇まいを露わにしたことに対して当惑した、というのが率直な感想です。

ベタ/メタという二分法で考えたことがないので、手紙らしくざっくばらんに、自分にとってベタ、メタ概念を構成しそうなものをあげてみたいと思います。まず自分にとって大事なベタですが、ジョージ・ヘリマンのコミック・ストリップ『Krazy Kat』における、性別も明らかでないネコ(Krazy Kat)とネズミ(Ignatz)とイヌの警官(Officer Bull Pupp)が、互いに純真な「恋」の信者(恋に恋する!)として、それぞれの幻想と役割の殻を被ることなく延々と繰り広げる、スラップスティックかもしれません。対して、レオン・ラッセルのウェットな音響で歌われるベタベタにパセティックな歌にこそメタの距離を感じます。

他人たちの非社会的社交

宮沢さんのタモリ論がそうであるように、膨大な資料からクロノジカルな記述を試みる近藤本もタモリの揺るぎないスタイルへの屈折した思いを隠していません。宮沢さんが摘出した「虚ろなスタイル」は革新的でもありましたが、一方で「趣味人タモリ」に見られる(周囲からのますますの尊敬を集めながらの)他人への熱狂のなさと自己充足の保守的身振りに帰結する、かのように見えるからです。タモリにおける「他人」の境位については、近藤本も引く98年のナンシー関の分析が今もって冴えています。

 ナンシーは、もともとタモリが《「父・兄・教師」などの信頼が発生する関係性ではなく、あくまでも得体の知れない通りすがりの、もしくは近所に住んでるけど素性のわからない「他人」的司会者を標榜したがっていた》ことを指摘している(事実、タモリ本人が過去にそのような発言をしていた)。そこへきて彼が「おじいちゃん」願望を強くアピールするようになったのはなぜか? ナンシーはこれについて次のように考察した。
《「父」や「兄」に比べると「祖父」というのは無責任感を漂わせる続き柄である。「祖母」の持つ郷愁みたいなものも薄いし。そのあたりをふまえると、タモリは最近の「おじいちゃん」的司会者という境遇を、やぶさかではないとしているはずである。関係性を持たない「他人・通行人」的立場より、「おじいちゃん」的というのは、より規制がないのかもしれない》(『週刊朝日』一九九八年一月三〇日号)(近藤正高『タモリと戦後ニッポン』講談社現代新書、2015年、p. 304)

ここで他人論、というか現代思想の他者論のようなことを復習する余裕はありません。(しかし必然的にも『考える水、その他の石』に出てくる重要な用語のひとつに「他者」があります。加えて巻末ではオウム事件について触れられていることだけ、記しておきます。)ブギーさんが岡田暁生さんの著書を引きながらパラフレーズするように、「ヒーリング・ミュージック、ニューエイジ・ミュージックをどれだけ聴いても極端な個人の内面もしくは極端なスケールの大きさにしかたどり着かない」という失望は、私にもあります。
そこから引き出す「音楽を聴くとは他者を探すこと」という岡田さんのヒューマニスティックなモラルと結論に対して、私が摘出してみたいのは、非人間主義的な非社会的社交(これは私の造語です)の強度です。上記のナンシー関の文章からは、ブギーさんもきっと、タモリの赤塚不二夫への弔辞のなかの「あの」言葉を思いだしたはずです。

 私はあなたに生前お世話になりながら、ひと言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを他人を通じて知りました。(強調は引用者による)

赤塚不二夫がタモリの芸を見込み、タモリはそれを受け入れた。居候生活を許されてお小遣いまでもらいながら、ついに礼を言ったことはなかった。「肉親以上の関係」である赤塚不二夫との間に、よそよそしさが、他人行儀な雰囲気が生まれるのをきらったから、というのがその理由なのですが、非社会的な(周囲からは道徳に反しているようにも見える)役割を互いが遂行し続けるためには、絶対的な無関心という距離が必要だったのではないでしょうか。つまり、ここにはナンシー関の表現でいうところの、「関係性を持たない「他人・通行人」的立場」があざやかに描かれていないでしょうか。「他人・通行人」だから弱い方に暴力を振るい勝手に殺していいわけではない。軽く会釈するように経済的互助も成立する「他人・通行人」です。この告白には、赤塚不二夫=他人とタモリ=他人が一般的利害を無視して社交する、一種のユートピアを生きた事実が描かれているゆえ、何がしかの感動を誘うのではないでしょうか。「他人」同士になることを通して肉親以上の、肉親からは限りなく遠い関係を結ぶこともある、という稀な可能性を示唆してはいないでしょうか。そしてこのエピソードは、もう一人の登場人物、タモリが赤塚不二夫の胸の内を教えてもらった別の「他人」がいることで成立するのではないでしょうか。

眠らない芸人、あるいは死んでる場合じゃないのだ

タモリの赤塚不二夫への弔辞には「あなたは生活すべてがギャグでした」という文言が出てきます。ギャグでした、であり、芸人でした、でないことを承知の上で、その一生が芸のように貫徹された音楽家として私が思い浮かべるのはフランク・ザッパです。たしかに「家庭人」としての側面も持ってはいなくはないのですが、およそオンとオフというものが存在せず、したがってゴシップ誌が喜ぶようなスキャンダルとも無縁だった男。録音、メディア出演、ツアーというポピュラー音楽業界の典型的なサイクルをこなしながら、その間見聞きした情報、交流した人間、レコード会社との抗争さえも、ほとんどすべてを素材にすることであわただしく生活を立てることに忠実だった生真面目な男。「I Am All Day And Night」という、かつてカナダ放送協会によって配信されたオーディオ・ドキュメンタリーのタイトルのとおり、ザッパには裏表がありません。ずっとボケなのです。
ずっとボケているのですが、じっさいにはボケとツッコミの役割を狂うことなく器用に演じ分けました。とりわけライヴでは自らの芸の役者であり、作家でした。ザッパ・バンドにいた人たち(たとえばルース・アンダーウッド)が、コンサートのなかで「キャラクター」を与えられたことを感慨深く回想するように、ザッパの音楽は演劇やコントの側面を多分に備えています。『Them or Us』という一種のオペラの台本さえ書いたほどです。
録音、メディア出演、ツアーというルーチンはしかし、作曲し、ときに指揮し、最終的に自分の音楽が他人(と)の演奏を通して生き残る、という根本的動機に支えられていました。それゆえ一定しないバンド・メンバーとの共同生活が、その目的から見ると、冷酷なまでの手段と映りもします。逆に言えばザッパにはバンド・メンバーとの関係にありがちなドロドロしたものがなく、ひたすらドライです。父権的な雇用主と従業員の関係。
ザッパが「人類学者」を自任しながらテープレコーダーを持ち歩き、作品のネタにするために周囲のプライヴェートな会話を録音し続けたのは有名な話です。まさしくお笑いにおける「楽屋裏」が対象だったわけです。トニー・パーマーとともに監督した映画『200 Motels』(1971年)では自らをバンド・メンバーを統制する独裁者として表象させる用意周到さ。あげく自分をリンゴ・スターに演じさせる。このメタメタなボケっぷり、あるいは潔癖なまでにボケのプログラムの遂行するのが、ザッパというドキュメンタリー的人間、眠らない芸人なのです。

ニューエイジ関連では、ザッパ・バンドは後のGroup 87のパトリック・オハーンとそのアルバムにも参加したテリー・ボジオを輩出しています。ソロのデビューをPrivate Musicでかざったオハーンはウェザーレポート~ニューエイジを地で行った感じです。ブギーさんも知るとおり、グラミー賞のニューエイジ部門で二度ノミネートされています。アルバムこそ残していませんが、中期ザッパ・バンドのキーボード奏者のトミー・マーズもザッパのニューエイジ・サウンドの貢献者に数えてよいでしょう。そして主に音色の面で、という留保が付きますが、1988年のグラミー賞で最優秀ロック・インストゥルメンタル演奏賞を獲得した『Jazz from Hell』。
ザッパの「打ち込み作品」ではこの『Jazz from Hell』ばかり取り上げられやすいのですが、彼が言うところの「シリアス・ミュージック」に腰を据えて向き合った死後発表の『Civilization Phaze III』(Barking Pumpkin、1994年)の無調性はもっと注目されてよいと思います。グルーヴを意図的に排したように、聞こえないリズムによって演奏が統制され抑制された鎮静的な響きを持つザヴィヌル『Di•a•lects』の隣に並べてみたいです。


青年期ドラマーだったザッパの作曲者としての目覚めは、1989年に出版された「The Real Frank Zappa Book(邦訳:『フランク・ザッパ自伝』(河出書房新社、2004年)」で本人が述懐するように、ジョン・ケージとエドガー・ヴァレーズからの震撼によって決定付けられていると言ってよいでしょう。名高い1963年のスティーヴ・アレン・ショー出演時の、自転車を用いた「コンポジション」の実演と、司会者もまじえた即興の指揮を見ると、(途中シンクラヴィアに入れ込んだ時期もあったとはいえ)それから病没するまでの三十年間の間、頑なまでにやることを変えなかった潔癖さに驚かされます。
私がザッパを芸人にたとえるのは、こうした生真面目な生き方だけでなく、もちろんよく知られるユーモアの趣味や身振りにも由来します。歌詞に現われるのはどうしようもない身内ネタで、前述の自伝を開けば辟易するほどのジョークばかり、メディアで口を開けば顔色ひとつ変えずに流暢にボケてみせる。
ところで作曲者としてのザッパが畏敬を抱き、仕事をともにすることが叶った相手に巨匠ピエール・ブーレーズがいます。ブーレーズのシリアスなファンにとっては、ほとんど取るに足らない事実かもしれません。たった一度、自作曲をブーレーズに指揮してもったさいの録音盤に付けたタイトルは『The Perfect Stranger』(Angel、1984年)。つまり赤の他人と律儀に関係性を示してみせる(ザッパはこうしたもったいぶった、どこか斜に構えたアイロニカルな言語感覚があります)。自分が現代音楽と全く畑ちがいの、野蛮な独学作曲家であることを自覚しているわけです。
ブーレーズのようなザッパにとっての「セレブ」とは真反対の、気の置けない仲間としてよく知られているのは、高校時代からの友人、キャプテン・ビーフハートことドン・ヴァン・ヴリートでしょう(以下の二人に関する記述では、small talksの「フランク・ザッパとキャプテン・ビーフハート」をかなり参照しました)。二人はともにポピュラー音楽業界に入り、旧友のよしみでザッパはヴァン・ヴリートがリーダーを執った1stアルバム『Trout Mask Replica』をプロデュースし、自分のレーベルからリリースするわけですが、それ以降二人の間の関係はどんどん冷え込んでいきます。ヴァン・ヴリートは自らが奇人のように「プロデュース」されるように感じるのが我慢ならなかったのです。ザッパは伴侶ゲイルとともにレコード会社と闘いながらインディ路線を開拓していったわけですが(それゆえ自転車操業的に働かなければならなくなった)、ヴァン・ヴリートの方はロックスターよろしく、業界にスポイルされていきました。
権利関係にがんじがらめになって身動きできなくなったヴァン・ヴリートを、ザッパはツアーに連れ出すことで助けます。この成果の一部は1975年、『Bongo Fury』(DiscReet)として発表されます。カバーの二人は仕切りで隔てられたように離れて座り、一方はカメラを睨み、一方はパナマハットを深くかぶって俯いている。とても旧友同士には見えませんが、ユーモラスな雰囲気を看守でなくもありません(たとえばザッパの握ったアイスクリーム)。翌年、ヴァン・ヴリートはザッパの DiscReet Recordsで『Bat Chain Puller』を完成させますが、権利関係の問題で両者の死後、2012年まで発売に至りませんでした。生前のヴァン・ヴリートは画家転身後も人質にとられたかのようなこのマスターテープを世に解き放ちたかったようですが、最終的にザッパは肯きませんでした。

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ツアー以後、表立った二人の交流は確認できません。二人が接点を回復するようになるのは、ザッパが余命短いことを聞いて、ヴァン・ヴリートが電話するようになった最晩年を俟たなければなりませんでした。
フランク・ザッパといえば生前の膨大なカタログと死後もリリースが止まないリリースが有名ですが、最晩年のプロジェクトのひとつに、発表の機会を失った曲を集めた『The Lost Episodes』(Rykodisc、1996年)があります。これは実はザッパ交遊録とでも呼ぶべきアルバムで、数々の登場人物(音楽史的にマイナーな)を通して生涯を回顧する、ザッパらしからぬ多少センチメンタルかつ自伝的な作品になっています。そしてこのあるバムのなかには、「旧友」だったころのヴァン・ヴリートももちろん登場します。それだけでなく、晩年のザッパはヴァン・ヴリートの声とシンクラヴィアを用いて新曲を「The Grand Wazoo」をこのアルバムのためにわざわざ制作したのです。ヴァン・ヴリートの音声が録音されたのは1969年。シンクラヴィアがオーバーダブされたのは1992年。こうした「ネタ」の使用の間隔はザッパによくあることです。この曲を聴くと自分は笑ってしまうんです。ブーレーズの「主なき槌 Le marteau sans maître」そっくりですから。ザッパにとって「おフランスの」巨匠であり続けたブーレーズが両者の死後も、2016年まで長生きしたのは知ってのとおりです。

ザッパ-ブーレーズ-ヴァン・ヴリート。「他人」というそっけない二語を聞いて私が想起するのはこの線です。ここには赤塚不二夫-タモリのエピソードから感じられるような幸福感は乏しく、失敗すら含まれますが、私にとって謎めき頭を旋回する肯定的な線なのです。

カノンと対決するブギーアイドル

唐突ですが手紙を書きながら、危惧しています。この往復書簡には、困ったことにおたがいのプロフィールすら記されておらず、企画を多分に読者に不親切なものにしてしまっているかもしれない、という危惧です。しかし、そうした反応に対しては、手紙とは必然的に読者の大半が興味本位で盗み見するもので、その文章にしてからが自伝的なモンタージュにならざる得ないものだから、と弁明できなくもない。居直りです。とはいえ、第一信で、書簡の共著者であり伴走者でもある書き手について、踏み込んで紹介する責務を結果的にせよ放棄してしまっていた自分の厚かましさに飽きれてしまっています。そう、これは公開往復書簡でもあるのです。だから、遅ればせながら・・・。
ふしだらな自分とちがい、ブギーアイドルさんは、先に示したように私にとって過去の遺産を点呼する責務に貫かれた、意志の人に映ります。第二信の「大き過ぎる存在は常に忘れがち」という表白はひじょうにブギーさんらしいものではないでしょうか。『ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド』(DU BOOKS、2020年)における掲載ディスク選出の具体的経緯を私は知りませんが、エンヤ、エリック・セラ、フィリップ・セス、アンドレ・ガノン、リチャード・クレイダーマン、ラスティ・クルッチャー、ウィリアム・オーラ、スーザン・オズボーン、アコースティック・アルケミー、ヤニー、ADIEMUS、楊興新、キム・シン、和泉宏隆、山形由美、上原和夫、渡辺博也、渡辺路代、プレイアード、吉原すみれ、若草恵、松田昌、有賀啓雄、S.E.N.S.、千住明、東儀秀樹、Opium Moonといったラインナップはブギーアイドルという人物の形象を伝えることを裏切っていません。極めつきは、ポール・サイモン、ザヴィヌル、ディープ・フォレスト、筒美京平。ブギーアイドルさんが何かしら仕事量の莫大な職業作曲者を呼び起こすとき、あるいはグラミー賞に言及するとき、それは消費者や観客として権威に依存するためではありません。誰かの名前を呼ぶときは、必ず同時代人として呼び集める「勁さ」があります。あなたがここにいてほしい、どうして自分はそのときいなかったのか、という(ほとんどの場合、遅れてやって来ざるを得ない)媒介者の熱意です。だからこそ、なのでしょう。相次ぐ訃報に接して第二信のはじまりとおわりに「正気を保つふりをし続けなければならない日々」「何かしら希望を探さなければ残されたリスナーは正気を保てない」といった切迫、急迫が聞こえるのは偶然ではないし、書簡の読者にはそれがエモい、泣ける、ヤバいといった自動的誇張表現とは異なった情動であると、不器用ながら註釈したいところです。
カノンを点呼する。この役目は当然ながら容易ではありません。「大物」を讃えるにしろ、「過小評価された作家」「知られざる派生作品」を発掘するにしろ、意識的、無意識的を問わず、小さなポピュリズムの再生産に与してしまいがちなのが、現在のネット言説だからです。つまり、「イケてる」「ウケる」という言葉がとうに流行を過ぎ去ったかに見える2020年でさえ、名声のトレンドの座標軸はあらゆる価値評価を支えてしまっています。
カノンを点呼する者はカノンと対決も拒みません。
『ディスクガイド』冒頭の「細野晴臣インタビュー」へのブギーさんの批判に、私から付け加えることはありません。冗語を許してもらえれば、細野さんが岡田さんに対して上手(じょうず)に上手(うわて)になり過ぎてしまっているでしょう。その上で、ふっと両者の同意を通り過ぎる下のような表白を喚起します。

今は音楽の良し悪しなんか問われないですよ。音のよさとそれを並べてくデザインだけっていうか、あとは声の力っていうかな。それだけでできていっるんで。これから先そういうシステムはどこへ向かっていくんだろうってね。(p. Ⅸ)

この発言が具体的に何を想定して述べられたものかは明示されていないので想像するほかありませんが、読み様によっては冷たく残酷な響きを持つ言葉にニヒリスティックに同意するでも、その底意を無視するでもない、倫理的構えとは、ブギーさんのように「カノンを点呼し、対決する」姿勢しかないと思うのです。伝統と刺し違える覚悟がなければジャスコにしろシティポップにしろVaporwaveにしろ、過去と必死になって戯れることから肯定的な線を導きだせないでしょう。

ここまでで私はブギーアイドルさんの峻厳さを際立たせてしまったかもしれません。ですが、ブギーさんほど音楽から喜びを得ている人もいません。2014年、ブギーアイドルさんはNew Masterpieceから△KTRさんと『ideal market serenade』をリリースしています。M3でこのCDを購入したときが初顔合わせだったと記憶しています。イオンモールがモチーフにあること、夜の風景をカバーにしたセレナーデといったコンセプトからモールソフトのようなうつらうつらしてしまう甘美さを予測してしまいますが、じっさいの音の何と鋭く激しいことでしょうか。松任谷由美の『Delight Slight Light KISS』(東芝EMI、1988年)を子どものころ初めて通しで聴いたとき、肉体的に疲れてしまったことを思いだしました。ブギーさんの作品に接すると、ジャズに影響を受けた音楽からときに自分が感じてしまう、高速パズルを解くゲームに通じる情報の過多から来る疲労ではなく、情動の強度と密度に振り落とされそうになり疲れるのです。それだけ、集中力を要する。ブギーアイドルさんの音楽はひじょうにコンセプチュアルでありながら、素面で肉体的なのです。

細野晴臣における俯瞰と離脱の官能

手紙のなかで、ブギーさんは細野晴臣さんを鈴木武幸の「力」と対比させて語っています。たしかに迸るような感情の表出や俊敏な運動性の対極に細野さんはいるかのようです。「体操」も「スポーツマン」もそのなかに表象されているのはどう見てもマチズモと縁遠い運動神経に欠けた人です。その独特にナーディなイメージや、デヴィッド・バーンのダンスよろしく、痙攣的、強迫的動作の奇怪さとおかしみが、細野晴臣さん特有のフラジャイルなものの一部を構成しているように思われます。

JFN PARKで放送・配信されている”歌う放送作家”植竹公和さんの番組『アカシック・ラジオ』で久々に荒井由実さん『MISSLIM』(Alfa 1974年)をA面・B面通して聴いたのですがSly & The Family Stone「In Time」を下地にした「あなただけのもの」のリズム・アプローチは大変丁寧な仕上がりでよくできています。ですがまるで小人が箱庭で演奏しているようにしか聴こえなかったのです。

第二信からの引用です。「小人が箱庭で演奏しているように」とは言い得て妙です。細野晴臣好みのサウンドがあるとすれば、それは耳の焦点が遠くに設定されていて、かつ音像がぼやけることのない眺望的な空間(環境)ではないでしょうか。細野的スケール感と呼べるものが、たしかに存在します。ダイナミクスに欠けていないものの、その効果として相対的に均されたテクスチュアが際立ってしまうことがあるし、ビートが重くなり過ぎないので、リズムを「刻む」というよりは、パタパタとしたはためきに変わってしまう。細野サウンドは離人的かつ浮遊しているのです。私は「離脱」について細野さんが語ってきたことを言葉の戯れではなく、「ベタに」つまり真面目に捉えたいと思っています。浮いて眺望しているからこその、小人と箱庭です。
だが、面白いのは離人的といってもアパシーの状態とは異なることです。いったい、細野晴臣さんほど「気持ちよさ」を重視し、言葉にしてきた人はいないでしょう。自らの官能性への正直さ。かの有名な「頭クラクラ、溝落ちワクワク、下半身モヤモヤ=踊らずにはいられない、前頭葉マッサージ」あるいは「足の裏がぽかぽかする」といった官能の方向を倫理的に進めたことに、細野さんの発明があると思います。そして、私の見るところ、この官能への忠実は、「どんな音が新しいか」という記事に見られる言語とすこぶる相性が悪い。したがって、先に引用した冷淡さの表出が可能になるのではないでしょうか。ここにおける「冷淡さ」といった用語はけして人格に向けられたものでなく、細野さんにとって重要な概念だと思われる「退屈」が好奇心と隣り合わせであるように、あの穏やかさな身振りと裏合わせのものであるでしょう。

雨を受ける菅原弘明

打ち込み(コンピューターにデータを打ち込み演奏させる)のも打ち込み師の熱が反映されるけれど、自分は演奏の「息」を録音するのにロマンを感じるのです。そしてそれを「聴いたことない音像」に仕上げていくエンジニアリングにもまたロマンを感じる。そこのところを一番感じるのが65年くらいからのビートルズのレコーディング。(菅原弘明「録音ってロマンティック」)

ブギーアイドルさんがたえず指標とする先達を数え上げるのにならって、自分もまた今年官能に触れた人たちを何人か挙げてみたいと思います。
まずは2020年9月にアルバム『Electric Lotus』(ネジレ文庫)を完成させた菅原弘明さんです。ブギーさんが言うところのYMO人脈に入る方で、シンセサイザー・オペレーターとして高橋幸宏さんや教授と仕事をしてきたアレンジャーです。ブギーさんのなかではEPO作品での編曲の仕事が思い浮かぶでしょうか。今年の梅雨の鬱屈を、偶然知ったYouTubeチャンネルの歌に和らげてもらっていました。そして恥ずかしながら、そのときまで菅原さんにソロ作品もあると知りませんでした。楽曲配信されているアルバムもありますが、前作、前々作に相当する『アメマチ』(FOA.Record、2005年)と『ドライブ』(菅原弘明と田島ハル旅団名義)(twistboll、2012年)含め、現在は直営レーベル、ネジレ文庫のオンライン・ショップでCDを購入可能です。歌詞カードを見ながら聴いて欲しいとおっしゃってるので引用はしませんが、菅原さんの詞には「雨まち」「Flower Song」「ひと待ちブルース」「カヌー」「coffee」「ドライブ」「六月は雨」「火星から」「なんて言えば」「遠雷」「センティメント」と雨が頻出します。実質ソロアルバムと言ってよさそうな日本クラウンの「楽園主義」シリーズから発売されたセルヒオ・マリア・サガーロ名義の『rain guitar』(2002年)も「雨雲は犬の笑った顔。」という曲で始まります。私が彼の歌う雨に気持ち良さを感じ取ったのはどうやら偶然ではなかったようです。
9月まで自分は健康に気遣いながら立っていることが精いっぱいで、必然、外界からの刺激に反応する余裕もありませんでした。そうした時期に、均されていない地面の凸凹をうねっていくようなリズムと、かと思えば滑らかな風の動きを重さとして受け止めるような厚くハスキーな声のコーラスが耳に入ってきたんですね。特撮で流れる歌や劇伴を選択するブギーさんと比べると、文弱に映ってもおかしくありません。歌とギターが曲を先導するから、リズムが立ちどまるし、変化し、フレーズのアクセントの置き方が、梅雨のときの自分にとってとにかく心地好く感じられたのです。

『Electric Lotus』完成に先立ち開設されたnoteでは、レコーディングの裏話も書かれていますし、メディアに載ることのなかった履歴を読むこともできます(「アレンジャーの自分がソロアルバムをつくるようになるまで」)。ワールド・ミュージック関連では、坂本龍一さんの『Neo Geo』に参加したときの話こそ、ここで引くべきかもしれません。

教授のNEOGEO、after all ではケチャのサンプルをフェアライトでフィルター、レゾナンスしたと思う。すごくノスタルジックで、自分には夏の夜に鳴く蛙のように聴こえて、マジックだなと思ったのでした。ちなみにこのトラックはシーケンスせず、教授が手弾きで入れ込んでいったように記憶している。もうひとつ思い出してしまったけど、ドラム(確かトニートンプソン)の演奏をフェアライトで編集して、同期して録音するときにモジュレーションを切ってなかった。なので薄っすらシンバルプレイのピッチが周期的に揺れてます。途中で気づいたけど面白いなと思ってそのままにしてしまった。きっと皆んな面白いと思ったからほっといてくれた、と日記には書いておこう(つけたことないけど)と。(菅原弘明「アコースティック、テクノ2」)

三宅榛名による「ライヴ・ハウスのスクリャービン」

ブギーさんがいつまでも軽やかさを失わない坂田明さんの名に言及していたからでしょうか、第二信から第三信の間にとって自分の支えとなったのが、作曲家・演奏家、三宅榛名さんの洒脱なセンスがいかんなく発揮された美しい本の言葉と即興と、現前性を軸に置いた聴取と分析のあり方でした(今日のリスナーからすれば、手近にアクセスできるディスコグラフィが極めて限定されているのは残念と言うほかありません。その著書とともに音盤化やリイシューあるいは復刊が進むべきでしょう)。両者は対談経験もありますし、1982年には、渋谷ジァンジァンを舞台とした三宅さんのコンサート・シリーズ「現代音楽は私(10)ジャンル錯乱」に、岡村喬生さんとともに呼ばれています。この往復書簡で関連しそうなところでは、「山下洋輔さんのピアノ――現代音楽とジャズ、即興と作曲についてのレポート」、「オソレ多さの自然学――武満徹」(ともに『音楽未来通信』所収)といった共演者や面識ある先覚者への愛ある鋭い批判や、ワールド・ミュージック・ブーム同様、多文化主義的な文脈をもつ1977年のパンムジーク・フェスティヴァル、そのプロデューサー、W・バッハウアーへのインタヴュー記「東は東、西は西」(『地球は音楽のざわめき』)を挙げておきます。後者で三宅さんが疑問に付すのは、「非ヨーロッパ圏の伝統音楽」が西洋中心主義で紹介されるさいの、善意(悪意のなさ)です。
さて、三宅榛名さんとニューエイジはもちろん縁遠いし、エレクトロニクスからも距離を保っていました。それを承知の上で、官能性という関心から、スクリャービンについての考察を紹介します。

彼の音楽は音だけでは事足らず、壮大な音の響きと共に色とりどりの証明による舞台効果、動きとしての舞踏、その上、香りすら取り入れた、何というか、ギンギラギンに華やかに後光が差し、神と宇宙と自分の音楽が、ここにおいて一直線上に並ぶ錯覚によってまばゆくマユツバに世界が光り輝く総合音楽だ。それは今更ながら、LSDの音楽、異国のハッシッシュの夢への突入、そして夢のなかのただよいと呼べる。(「ライヴ・ハウスのスクリャービン」『地球は音楽のざわめき』青土社、1980年、p. 259)

このエッセイでは、スクリャービンの曲を三宅さんが弾きながら、人を酔わさずにはおかないこの音楽は、ジャズが演奏されるライヴ・ハウスにこそ似つかわしいのではないかと、独自の音響論が展開されています。彼の音楽の甘美さは何に由来するのでしょうか。

 小節ごとに同じパターンをあきずくり返すその安易な気長さ、あきず登り下りするくり返しのフシのパターン、たとえば三番のソナタ一楽章における毎小節、常にアウフ・タクトでひっかけては弾き進む左手の様子などがクッキリとイヤというほど見えてくる。そしてそこでわかることは、コードくずいによって出来たメロディーのその単音の一つ一つの進行が(それはほとんど増音程、減音程からなるが)、エコーなし、つまりペダルなしでも、十分に甘美さをただよわせるということだ。
 おそらくその単音進行は彼の音楽のリズム感といえるもの、つまりただよい流れ、ときに失速し、落下し、つき進む、といったひどく気まぐれでいて、しかし内的には安定したリズムをもっているところの彼のリズム感とも密接に結びついている。
(…)
 二十世紀音楽、とりわけシェーンベルクから出発した現代音楽は他を拒絶することによって現代の様相を正確に描き出した。そのさまに対し、このアレクサンドル・スクリャービンの音楽がいかに人に取り付くことを望み、人をとりこにし、酔わせることを切望していた。(同上、)

ニューエイジ的音響はしばしば観念と「出音」の空間を賭け札にするから、官能性に導かれているのは理解できても、チャンネルがだらだらと開かれっぱなしで不健康なんですね(その不安の面白さもありますが)。最終的にこの人工的空間がそこまで埋没するに足るものなのかなあ、構築の意志が弱いなあ、としばしば不信感が募ってしまうのです。ここではそれと対照的な、宅録的な「近い」空間を大事にし、ライヴ・ハウスでジャズも演奏するディグス・デュークのスクリャービンのEPを聴いてみたい。シンセサイザーの洪水に身を任せるよりも、打ち込みでも一音一音が鳴り響き立ち現われるさまが聞き取ることができ、またいたずらに曲を長くしない彼のようなアプローチの方を、今の自分は好みます。

三上博史のノレなさの偉大さ

ブギーアイドルさんが指摘する「1980年代後半から1990前半までの日本のポップス・歌謡曲の傍流」のなかで、ここ半年ゆっくりと追いかけ続けた人が三上博史です。ブギーさんの博覧強記のなかからはいくつも映像作品が呼び出されるはずですが(「ハートカクテルドラマスペシャル」にも出演しましたからね)、私にとって役者、三上博史を初めて意識したのは、青山真治監督の『月の砂漠』(2001年)になります。ネットで閲覧可能なあらすじに触れただけではとてもローラ・ニーロやビーチボーイズの流れる作品に見えないのですが、これに関しては措くとして・・・。

三上さんはそのときは既にアルバム制作から遠ざかっていましたが、80年代後半からエロティシズムを地で行くような耽美的なヴィジュアルとともに音楽のセルフ・プロデュースに携わってきました。そのプロデュース力に感じ入ったのは、久保田利伸さんが主題歌「夢 with You」を手がけた連続テレビドラマ『チャンス!』(フジテレビ、1993年)における、作中の本城裕二名義(歌手役)で発表された同名曲です(ビクターエンタテインメント、1993年)。とても久保田利伸作曲に聞こえない湿り気のある歌いこなしと、挿入歌として用いられたことが信じられないとっつきにいアレンジ、とりわけリズムに感嘆しました。なお、奥恵一さんがオーケストレーションを務めたオリジナル・サウンドトラック(ソニー・ミュージックエンタテインメント、1993年)には本城裕二の曲は収録されておらず、シングル以外では三上博史名義のベスト・アルバム『ARC』(ビクターエンタテインメント、1993年)でそれらを聞くことができます。驚くべきは三上さんにとって初めてのシングルが出たのが、この本城裕二という役名によるもので、もともとアルバムからシングルカットしない人であったということです。
1988年の1stアルバム『G.O.D.S』(ビクターエンタテインメント)から、自作の詞と歌唱から形作られる世界観は確固としたものですが、遠藤晶美さんが編曲に多く参加しているからでもありましょう、相対的にもっともニューエイジ色が感じられる(こう言ってよければバレアリックな)作品かもしれません。80年代的なキラキラなシンセ音、デジタル録音のこなれなさの残る、ステレオ感に違和があるミックス。しかしドラム、横山英規、ベース、棚沢雅樹という人選から「三上博史」を特徴付けるリズム感が明確に提示されていますし、この方向性を本人は後のアルバムでも大事されたのだと推測します(ビブラトーン、ショコラータ、THE THRILLの人脈は三上サウンドにとって核となります)。個人的には両者編曲、作曲を是沢淳子さんが担当した「THEOREMA」がいちばん伸び伸びとやっているように聞こえます。
単独プロデュースとなった翌年の『ORGA'N』は三上博史の文学の真骨頂です。ブックレットを開くといきなりバタイユ、クロソウスキー、ブランショに言及される衒学的序文に出会います。

「血の記憶」地球46億年、海38億年、植物4億年、ヒト10万年、原子の、太古の、始源の。プリミティブと、アルケーと。初めての、ヒト。男、目覚める。息、息吹、鼓動。あらかじめ知っていた、凡てをもって。生と、その歓喜に満ちて。

生半可な「スピリチュアル」を寄せ付けない世界です。楽曲提供陣は蓜島邦明、棚沢雅樹、渡辺蕗子、浦山秀彦、板倉文、熊谷陽子といった顔ぶれ。仮想の劇伴を制作したく、声がかかった人たちであろうと想像にかたくありません(あるいはコンサートが劇として位置付けられていたのでしょうか)。歌謡曲的なノリは意図的に排除されており、あくまでドラマティック。蓜島さんの楽曲はニューエイジ調ながらもそこに統一はされておらず、渡辺さんのマニエリスティックな打ち込みとオーケストレーションも同時に耳に残ります。

1991年の『ORAL』(ビクターエンタテインメント)ではセッション・ドラマーのダギー・ボウン(ラウンジ・リザーズに籍を置いたこともあり、後にアート・リンゼイ・トリオにも参加する)との完全共同プロデュースに変わることで、ファンク色の強い重いリズムが一貫した作品に仕上がっています。ニューエイジの香りはどこへやら、一挙にジャズとニューウェーヴに傾いています。ベース・プレイヤーにはアンビシャス・ラヴァーズのピーター・シェラーやソウルコフィンのセバスチャン・スタインバーグの名が見られます。同時に参加ミュージシャンから日本人がごっそり抜けているのですが、そこにあって多数の曲で鍵盤を弾いている――ボウンのパートナーでもある――本田ゆかさん名前が目立ちます。もしかしたら本田さんはもう一人のプロデューサーだったのかもしれません。ちなみに当時はチボ・マット結成以前です。特筆しておきたいのがレコーディング・スタジオがデヴィッド・ボウイやルー・リードも利用したThe Magic Shopであること。この事実からだけでも三上博史さんが確固とした意志を持って「ニューヨーク・アルバム」を作りたかったことがわかります。タイアップを狙えそうな曲を録らねば、という義務感は微塵も感じられません。(ここでネタバレというわけではないんですが、TV版「夢 with You」の編曲は渡辺蕗子・横山英規・寺師徹・棚沢雅樹、対してシングル版はピーター・シェラーです。)
BMGビクター移籍後に発表された『TRANSIENT』(1994年)は一転して日本のミュージシャンで固めたバンド・サウンドへのアプローチを採っています。一曲目からTHE BELL'Sにいた野山昭雄さんのギターが激しい。Demi Semi Quaver、THE THRILL、THE VINCENTS、RittZといったバンド名がクレジットに多数確認されるように、「ロック・シンガー」三上博史のアルバムになっており、室内劇の雰囲気は一掃されています。Demi Semi Quaverはライヴやメディア出演時にバックについたときもあったようで、動画サイトでいくつかその様子を確認できます。
次作の『EGO』(BMGビクター、1995年)で音楽業は一区切りつき、2005年までアルバム発表は止まります。十曲中八曲を土屋昌巳がプロデュース。三上さんのヴィジュアルを考えると、ここで初めて名が出たのが不思議なくらいです。残り二曲のプロデュースにダギー・ボウンと本田ゆかが呼ばれていることに、三上さんの二人への信頼がうかがえます。
三上博史さんの音楽は特にビクター自体のアルバムに顕著なのですが、ダンスミュージック的グルーヴに乏しく、歌謡曲のような歌とオケの快感も抑制されています。後者は具体的には、歌詞の言葉遣い、メロディの抑揚のなさ、音域の狭さゆえときに唸るように聞こえる言葉、ややタメのきいた歌唱といった要素に由来します。耽美的といえどプリンス-岡村靖幸の線とは全然異質なんですね。
じつは秋にdatafruitsで「三上博史ナイト」(仮称)を開きたく、そこにブギーアイドルさんにも声をかけたかった。J-POP的に楽しみにくく、踊りにくい三上博史さんの音楽をどこに繋げられるのか、自分のなかではっきりしなかったこそイベントというかたちで問いたかったのです。たとえば元々マーク・ボランは好きでしたけれどグラム(あるいはヴィジュアル)というジャンルを今どこかに接続できないか、とか。結局ブギーさん以外の面々が想像できずここまできました。(下はMotion Graphixがホワイト・ウィリアムズ名義で2008年に発表した曲のPVになります。)

ところで・・・クリス・ウィートリーとジェレミー・ハリスと

三上博史つながりで音を手繰っていたとき、いちばん好きになったのがクリス・ウィートリーというベルギー系のブルース・ミュージシャンです。ダギー・ボウンがプロデュースし、ドラムを叩いているスタジオ・アルバムもあります。ここで取り上げたいのは、生前最後にに発表された『Soft Dangerous Shores』( Messenger Records、2005年)です。奇しくもバーンはこのほかにもデビュー・アルバム含む二作に携わっています。当然どのアルバムもギターと歌が前面に出ているわけですが、深い残響のなかで(ダニエル・ラノワに発掘されただけのことはあります)アンビエント風のシンセがバックで薄く控え目に鳴っていて、そのギャップが面白い。ミックスとキーボードおよびプログラムはバーン自らが手がけています。ミニマリズムからサイケデリックへの流れを感じる瞑想的な響きだけれど、ギターと歌がつねに動いているので、カントリー風の郷愁的な甘さもなく(イーノ兄弟の『Apollo』のような?)、こんな効果を生じるのかという発見がありました。
ミニマリズムからサイケデリックへの流れでこれまた私が偏愛する現役のプロデューサーに、ジェレミー・ハリスという人がいます。『ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド』でケイトリン・アウレリア・スミスが選出されていて、これもニューエイジという枠組みのなかで聴かれているのかと驚きましたが、彼女とも共作経験があるカリフォルニアのプロデューサー、エンジニアです。最初に感動したのは、Bandcampの音質でも明瞭にわかるミキシングの腕です。彼のプロジェクトであるクエスト・コーストで機微に触れるものがありましたら、今のところ唯一の本名名義の作品『Ages』(Gnome Life Records、2016年)に就いていただきたいです。もしかしたら柔和な響きに反して遊びのない音の建築性が目立ちすぎるかもしれません。逆に言えば弛緩するところがない、素面のサイケデリックを実現しています。このようなエンジニアリングで語れる人は稀少ですし、彼がこれから誰と仕事をするのか楽しみでなりません。ところでクエスト・コーストのBandcampのページのプロフィール欄には偶然にも「tales & relics from the newest age.」と書かれています。オチめいたものに掠ったところで返信を閉じます。

(敬称が統一されていませんが、そのままとしました。)

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