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日記① ある法螺話について

若いうちに考えていたことをどこかに留めておくと良いと、どこかで見た。
今までも気が向いた時にどこかに考えたことを書き留めていたけれど、たまには誰かの目に留まる可能性のあるここでも書いてみようと思う。
他の誰かを意識した言葉とそうでない言葉はやはり質的に異なるから、何だかおもしろそうだ。

今日考えたこと 小学校の同級生の話

今日ふと、ある小学校の同級生のことを思い出した。正確には、彼と交わした会話がなぜかふと頭に浮かんできた。

たまたま家と同じ方向に、彼と帰ることになって、他愛のないことを話していた。
どういった文脈かはもう覚えていないけど、彼に突然、
「本当はこの世界には灰色しかないんだって、知らなかったでしょ」
と、告げられた。彼は得意げだった。
彼曰く、この世界には本当は灰色しか存在しないが、人間の目の錯覚によって本来灰色であるはずのものが多様な色を持っているように見えるらしい。

彼は同級生の間では見栄っ張りで有名だった。父がどこそこの重役だとか、自分は凄腕ハッカーだとか主張していた。真偽は確かめようもないが、とりあえず皆の中ではそれらの命題は偽だと見做されていたし、「皆の気を引こうとする可哀想な奴」という憐れみの目線が投げかけられてすらいた。

おれ自身もそういうまなざしの構成員だった。本人にそう思われていたかはわからないが、少なくとも内心はそう思っていた。
だから、彼が帰り道に持ち出してきた話も、気を引くのほら話だとすぐに思った。そもそも、直感的にそんなことはあり得ないと思った。
今歩いている道の点字ブロックも、信号も、マンションの壁も、空も、全部違う色じゃないか!
君の着ている洋服だって、いろんな色で構成されているんだぞ、我々人間が、必死になって日々灰色から灰色を生み出しているわけがないだろ、と思った。
けれど、「世界には灰色しか存在しないが、人間の目の錯覚によって色という概念が生まれている」という主張に対して、なんと言い返せばいいかどうしてもわからなかった。言い返せない自分がとても歯痒かった。その時おれがどのように反駁したのかはもう覚えていないし、そもそもそれ以外、彼と交わした会話は覚えていない。

なぜ今になって、急にそんな出来事を思い出したんだろうか。
就職活動で精神的に抑圧され、毎日自分の個性だとか差別化とかそんなことばっかり考えているから、彼の中に自分にはないものを見出したのかもしれない。たとえ嘘でも、世界には本当はある色しか無いなんて視点は、あの時の自分には持てなかった。だから彼の視点に対する驚きとか羨望が自分の奥底にあって、固有名であろうともがく過程で思い出されてきたのかもしれない。

彼の主張は、結局のところ誤りでも真実でもあると思う。
クオリアとかいうように、同じ色に遭遇しても人がそれに対して抱く感覚は全く同じとは言えない。実際に色の区別に弱い目の構造をしていて、特定の色の違いを認識できない人も確かに、いる。色だけではなく物事に対象を拡張して考えても同様だ。同じ物事に相対しても、人によってその主観的経験は異なるだろう。

「人を理解するとは、たんに人を許すというだけでなく、判定という考えそのものを控え、断念すること」とシオランは言った。
たしかに、誰かの出来事の経験の仕方、そこから描き出される誰かのイメージ像に対して価値判断を下すということは、危うい。
おれはあの後、彼の提示した「ほら」について自ら調べることをしなかった。それは彼が虚言癖だとたかをくくっていたから、だけではなくて、彼の説が直感的に誤りと思われたからだ。
自分にとって直感的に誤りなことは数知れずあるが、その直感は誰かにとってはそうでないかもしれない。
そのことに自覚的でなければならないし、他者と相対的なもの(善悪とか正誤)について語る時に、客観的な理由なしの主張で、対話=相互理解のための営みは望めないことを忘れないようにしたい。

もし仮に、ここまでお付き合いいただいた方がいるならば、ありがとう。

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