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出会いの場

陶芸家、養蜂家、調教師(馬)、作家、研究者(海流)、大工、作家、書道家などなど。自分が行きつけのカフェのカウンターで出会った人たちだ。今思えば、ここの出会いが生き方に影響を与えたと思う。

そこに入ったきっかけ

函館の谷地頭にあるカフェ『クラシック』。不動産の仕事で近所の物件があり、周辺にどんな店や施設があるかを調べるために歩いていた時にそのカフェに入った。前々から谷地頭に行く度に気になっていた場所だったが、カフェというのは、男にとってなかなか入るハードルが高い場所だった。これは、まあまあの数の同意を得られるのではないかと思う。

しかし、今回はこの辺りの調査をしていて、その流れで立ち寄った、という『ついで』を装うことで、その店にも自分にも勝手な言い訳を携えていくことによって、整合性を取った。そんなことをする必要は全くないが、なにかきっかけや言い訳を作っておく、というのは、失敗したな、と思ってもあとでの言い訳を使えるという利点があるのかもしれない。この気持ちを分からない場合は、「なにを気持ち悪いこと言ってんだ!」という思いかもしれないので、この辺でやめとこ。

立ち寄ったのは、11月か12月くらいで、もう何年前かは忘れてしまったが、多分5年くらい前だったのではないか。そこで最初はテーブル席に座り、コーヒーを一杯飲んだ気がする。帰り際に店主夫妻に声をかけて、軽く自己紹介したかなんかだったかな。

場の提供

そこから頻繁に通うことになった。次に行った時からだったと思うが、意を決してカウンターに座ってみた。2回目でもやはりカフェというのは入るのに緊張感があった。ただここは、入ってみると自分にとって初めての感覚だったが、めちゃくちゃ落ち着いた。昼をいただきつつ、おしゃべりするのがいい時間となった。味音痴なので内容については、ご自身で確かめて欲しいが、優しくしみわたる感覚がある。

そこの店の人と会話ができる、というのは特別なことだ。『店』と一括りに言っても様々な形態がある。ただ、選んでレジを通すだけ、注文して食べて10分で出る、じっくりと試着をして買わずに出るなどなど。飲食店で店の人と会話をするイメージでピンとくるのはスナックだ。もしかするとちょっとそんな感覚で通っているのかもしれない。

そこで思うのは、カフェという形態ではあるが、店の人が作った空間を与えている『場の提供』を楽しみに通っているという感覚だ。視覚からの情報が人の意識に大きく作用し、見た目が9割みたいなちょっと題名に引っ張られすぎる本も出ている。実際には、そこまでの作用はないが、その場の雰囲気が作用することは大いにある。よく聞く例としては、沖縄に行って現地で飲む泡盛が最高に美味しかったから、家でも愉しみたいと思って大量に買っていったら、家だとあまり美味しくない。という話を何回か気痛いことがある。自分は下戸なのでその感覚は分からないが、開放的で温暖な気候下で喧騒を一時忘れ愉しく飲むのと、仕事で疲れて帰ってきた日常で飲むのでは、味は一緒なれど、雰囲気が全く違っている。そういうことなんじゃないかと思う。

食欲を満たすのなら、ファストフードでもワンコインランチでも食べればいい。そういった場の提供に対して対価を払っている感覚だ。場作りを大切に(勝手に思っているやけど)している店だと、自ずとそういったことを愉しみにくる人たちが多いと感じる。

出会いは始まり

いつの間にか店に入ることに緊張がなくなり、カウンターに自然と促されるようになっていた。店主夫妻との会話がとても思慮深くて楽しい。自分にはない思考を持っている考えを聞ける機会はとてもいいし、刺激になる。それだけでも来る価値が自分にはあるが、そういった店だからこそなのか、ほんとに様々な異様な異常なタイプの人たちが集まる。特にカウンターに座る人たちは一芸を持つ人が多い。

冒頭に挙げた人たちはここのカウンターで出会った人たちだ。そして、その出会いが自分にもとても影響を与えた。なにかを始め、なにかを成している人が多く、自分もなにかをしたい、できるのでは、しなくては、と思わせるパワーがある。この人たちの力を借りたらなんでもできるかもとも思い至った。

実際に現在、茅葺屋根の古民家を所有しているが、その再生や活用もここで出会った人たちとその縁で行えている。自分には、なんにも手に職も技術もないが、人とつながることでこうも動くことを知った。出会いから始まることがある。

これだから人に会うことはやめられない。さあ、今日も油売りにいこ。

ちなみにクラシックの店主もnoteを書いているので、そちらもどうぞ。




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