建設的対話の道 ~性差別と表現物~

1 このノートの目的

NHKによるキズナアイの起用について、批判派と擁護派の論争がありました。
批判派の意見の骨子は次のとおりです。

キズナアイの容姿や与えられた役割が、それぞれ、性差別(女性への抑圧を生じさせ得るジェンダー規範)の助長に繋がる。
NHKは公共性を有しているのだから、特に配慮すべきなのに、配慮が足りない。

これに対して、擁護派の多くは、性差別の助長に繋がるという指摘自体を否定しており、批判派の意見を「単なるお気持ち」「性差別棒による攻撃」というように揶揄する向きも見られます。

この問題の論点の一つは、「批判派の主張に理はあるのか」という点です。
しかし、この論争から見えてくるより重要な論点は、別にあると考えています。すなわち、
「批判派は、拠って立つ性差別の視座と、他の視座とのバランシングを意識すべきではないか。」
「擁護派は、性差別の視座を獲得すべきではないか。」

現在、“フェミ”と総称されることも多い批判派と、“表現の自由戦士”“オタク”と総称されることも多い擁護派とが、不毛な叩き合い(地獄絵図)に陥りつつある状況だといえます。
このnoteは、地獄絵図を避け、建設的対話が当たり前にできる状況を作っていくための道を示すことを、目的としたものです。

2 批判派の問題点

ある事象・表現は、受け手や社会に“様々な影響”を与えます。発し手の意図とは関係なく。
NHKによるキズナアイの起用/起用の仕方も、勿論同様です。そして、批判派が指摘するとおり、性差別の視座から問題とされる影響を生じさせるものであったと考えられます。(この点の論証は、このnoteの目的外なので、特には触れません。)
ただし、ある事象・表現による“様々な影響”は、言うまでもなく、多くの視座から評価されることになります。本当に多くの視座があり得ますので、どのような視座からも問題がない事象・表現というのは、ほぼ有り得ないでしょう。

そして、性差別の視座から問題とされる影響が生じる場合であっても、それは、他の視座からも評価される様々な影響の中の、ほんの一部です。
批判派は、まずもって、このことをはっきりと認識する必要があります。

そして、性差別の視座からぶつけられる事象・表現に対する批判も、「性差別の視座から見た事象・表現の改善」以外にも、様々な影響を与えます。批判派の意図とは関係なく。
例えば、ファン(勿論、子ども達や女性を含みます)の心を傷つけることもあるでしょう。
例えば、V-Tuberの活躍の機会を減じさせることもあるでしょう。
例えば、新たな社会規範・同調圧力を生じさせ、一部の女性を抑圧することもあるでしょう。
批判派は、このことも、はっきりと認識する必要があります。

以上の2つの認識を持つことができれば、批判のあり方は、丁寧かつ適切なものでなければならないということが、自ずとわかると思います。
そうすれば、何を問題にしているかすらわかりづらい雑な批判や、バランスを欠いた攻撃的な批判は、減っていくことになると考えられます。
これは、とても重要なことです。そうならなければ、いくら性差別の視座から一理ある意見がなされても、真に問題とされているはずの性差別について議論や検討が及ぶことにはならないでしょう。批判派からぶつけられる批判の是非の点ばかりが、議論されることになると思います。そうなれば、性差別の改善も遠ざかる一方でしょう。

3 擁護派の問題点

ここで考えねばならないのは、なぜ批判派が、雑な批判や、バランスを欠いた攻撃的な批判を行いがちなのか、という点です。
勿論、批判派個々人の資質の問題もあると思います。しかし、看過すべきでない問題として、「性差別」の視座自体の共有があまりに進まないことにも原因があると考えられます。
言葉を尽くしても伝わらない。
丁寧に説明しても聞く耳を持ってもらえない。
お気持ち批判だとか、単なる主観だとか、気に入らない表現を排除したいだけだ、などと言われてしまう。
そんな状況があるとなれば、丁寧かつ適切な説明を心掛けるモチベーションを保つことは、難しいでしょう。
擁護派としては、「性差別」の視座を共有し、批判派とともにこの問題を検討するよう努めることが必要です。

4 建設的対話の道

上に挙げた批判派の問題点と、擁護派の問題点は、相互に負の作用を働かせるものです。
擁護派が「性差別」の視座の共有を拒み続ければ、批判派は、雑な批判や、バランスを欠いた攻撃的な批判を、更に躊躇いなく行うようになるでしょう。
また、批判派が雑な批判やバランスを欠いた攻撃的な批判を行い続ければ、擁護派は、「性差別」の問題の存在自体を否定せねばならないと考えるようになり、「性差別」の視座の共有をより強く拒むようになるでしょう。

声を大にして言わせてください。
批判派と擁護派とが、地獄絵図を描いていくことになるのか、それとも、異見者同士であっても建設的な対話ができる状況を作りあげられるかは、一人一人の意識と行動次第です。
Twitter内で言えば、一つ一つのツイート、RT、ファボ等の積み重ね。

選挙に行くことを重要だと考えている方になら、わかっていただけると思います。たった1票ですが、社会の制度を形作る大事な力です。
同様に、たった1人の一つ一つの言動も、(大小様々な)社会のあり方を形作る大事な力です。
そうして、より良い社会を形作るための一つ一つが積み重なることを、強く望んでいます。

そう簡単にはいかないでしょう。選挙と違って結果が目に見えるわけでもないため、うまく進んでいるかどうかを認識することも難しいです。
しかし、地獄絵図になる原因も、その原因を取り払う方法も、見えています。
建設的対話が当たり前にできる状況を作っていくための道は、見えているのです。

少しずつでも良いのです。この道を目指してみませんか。そうなったらいいなと思う人から。そうなったらいいなと思える人から。
やってみませんか。

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