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連続X小説「光と影」㊶〜60

 T氏は、私のいた会社の社長の後輩だった。社長の出版社勤務時代の話を沢山聞けたが、一貫していたのは「××さん(社長の名前)は昔からダセぇ」で、私達によく「君らの作る本はダセえ」と言っていた。ある時、好きな雑誌はスタジオボイスだと言ったらT氏は満足気に「そこから学べよ」と笑った。

 T氏は口は悪かったがそれとは裏腹に文章は美文と評されていた。ノンフィクション本も何冊か出版していて、とてもプロフェッショナルな人だった。若い時に通っていた村上春樹が経営していたバーの話も貴重だった。私にとっては好きな先輩から好きな作家の話を聞く至福の時間だった。
 
 N氏独立の数ヶ月後にK氏もI社を辞めた。I社長と喧嘩別れしたそうだ。I社は有望な社員を立て続けに失ったが、どこの編プロでも仕事を覚えた社員が独立するのは普通だった。その受け皿として私のいた会社があった。N氏に続いてK氏もフリーとして受け入れた。しかも間借りという形で。
 
 毎回N氏と議論になりながらもコンビが続いていた私は、K氏とも一緒に仕事することになった。初対面が最悪だっただけに、二人の仕事ぶりに触れ、同世代だったことも手伝って、みるみる印象が逆転していった。そしてK氏の性質が異常な取材を可能にしていく様子を隣で見ることになった。

 N氏とK氏はどちらも興味の対象こそ違ったが取材ライターとして能力が高かった。K氏はさらに写真の技術もあり、グラビア撮影にも同行してスタッフとして一緒に働いてるうちに頼れる仲間になっていった。だが酒癖は悪いままで、深夜の新宿で通行人にカンチョーし出した時は辟易した。

 ある時、飲みの席で、ライターのT氏がいかに優れているかを私が語っていると、「あいつはクソだ!」とK氏が噛みついた。「俺はあの野郎をぜってえ認めねえ」と大先輩に対して暴言を吐くので理由を聞いた。すると、I社時代にT氏と会っていて、やはり酒の席でひと悶着あったのだった。

 編プロにおいて、アラが出にくい1Cページの写真はライターか同行編集者が撮るのが当たり前で、写真技術が上がっていく者もいた。K氏がそうで、文字が載るトビラ写真と本文に使う写真とを上手に撮り分けていた。そしてT氏もそうで、K氏は憧れの人に自分の撮ったものを見せたのだ。

その時のT氏の反応が酷かった。K氏の撮った写真(ネガだったかポジだったか)をさっと見て「クソみてぇな写真だ」と言って(店の)床に投げつけたそうだ。その話を聞いた私は当時も今も信じられないでいたが、K氏の酒癖の悪さとT氏世代の洒落のキツさを考えると有り得なくもないと思っている。
 
ぶつかった摩擦で熱が生じていたのか、自家発電の輩が多かったのか。そこには確かに熱があった。まず「酒の席まで出向く」かどうかで真価が問われていた。そして絡まれる時はどう回避しても絡まれる。編プロは何でも屋と揶揄されるだけではなく、会社員である事も蔑む風潮にあった。
 
 デスクワーク中心の編集者は信用されない。誰に? その業界のキーマンと言われる人達に、である。信用されないとどうなるか? 面白い話が聞けないのである。逆に言えばフットワークが軽い編集者は良いネタを拾えて良い取材が出来る。N氏もK氏もその点では優れていて私もそれに習っていた。

 N氏がバンドに入ったと聞いて意外だった。ボーカルは仕事を依頼しているライターH氏、ギター二人は「そっちの」監督、ベースはなんとT氏、ドラムがN氏だった。N氏以外は四十代から五十代のおじさんで自虐的なバンド名。私は彼らがどんな音楽をやるのか興味が湧いてライブに行った。

 高円寺や中野の小さなライブハウスが常だった。N氏とT氏がいるバンドの演奏はロックだしブルースだった。グランジではなくリアルな浮浪者のようなビジュアルのH氏が、時に気怠そうに、時にシャウトして歌う姿に圧倒され、不覚にも感動した。彼らの演奏は間違いなく格好良かった。

 彼らのライブに行くと何故か気持ちが落ち着いた。押し出しの良い都知事が浄化を進めていたが、まだ駅前にはスカウトマンがたむろしていて、貧困の女性ばかりでなく、一流企業に勤めている女性や裕福な主婦など、毎年二千人以上がそっちのビデオに出演する事情にうんざりしている時期だった。

 N氏の言葉を借りれば「最下層」の中高年達で結成された素人バンド。彼らの演奏が沁みて沁みて仕方なかった。ライブの常連客に、アンダーグラウンド雑誌の権威のY編集長がいて、そこでいつも挨拶が出来るのも嬉しかった。煙草とアルコールと代弁者達が消耗した何かを埋めてくれていた。
 
 ビデオデッキの普及で隆盛を極めたアングラ雑誌は、今度はインターネットの普及によって衰退していった。N氏とT氏以外のバンドのメンバーも、雑誌ライターのS氏も消息は不明だ。エロ本や兵どもが夢の跡だ。あのY編集長でさえとっくに退職金を貰って故郷へ戻ったと噂で聞いた。

 K氏は私の隣席だった。一回の食事で二人分を食べていたのが印象に残っている。K氏はグレーな存在にコミットし、K氏しか聞き出せないネタを常に掴んでいた。それをそのまま掲載すればヤバイ立場になる、まさに命懸けのネタを扱い、特異な平衡感覚で読者と情報提供者を繋いでいた。
 
 ヘア解禁は90年代初頭。隠さないのが悪か隠すのが悪か。モザイクを巡って国家権力と攻防を繰り広げる表現者がいる一方で、金儲けの為に「裏」を扱う業者も後を絶たない。定期的に撮り下ろしや流出ものがリリースされていた。これらを専門的に扱った雑誌をK氏が任され、毎号完売させていた。

 あっという間にK氏の名前は界隈に広まり、多忙を極めるようになった。使う暇がないので金銭的に余裕があって、節目節目で私達の食事代や遊び代を出してくれていた。彼にとって仕事と遊びが充実した人生の絶頂期だった。しかしこの王国は徐々に崩壊していく。王自らの行いによって。

 目の前の雪かきをやっとの事で終えても翌日にはまた何10センチも積もってしまう。そんなペースで仕事をこなしていたK氏の生活リズムが崩れていき、昼間はずっと寝ていて夜中に作業するようになっていたある晩。私も会社に泊まり込んでいた。電話を終えたK氏が突然、
「今カノジョと別れた」と言った。

 十代の終わりから付き合って、そろそろ結婚というタイミングでK氏の仕事が順調に行き過ぎた。二人は半年ほど全く会えなくなり、だんだんとすれ違っていった。何かを取り戻す為に二人で計画していた旅行の前日。それは入稿の〆切の日で、K氏は一人で仕事を抱え込み、全くの白紙状態だった。

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