見出し画像

おーい!落語の神様ッ 第六話

 咲太は自分の体内時計が狂ってしまったことにショックを受けていた。落語家になって十三年。時間を測る正確さだけは誰にも負けないと思っていたし、こんな事は初めてだった。みかんの高座が始まるまでには余裕を持って戻るつもりでいたのに、すでにみかんの高座は終わっていた。みかんはとんびが高座に上がっても咲太の姿が見えないので探しに来てくれたのだった。
 会場に戻るととんびが『松山鏡』を演っていた。咲太は舞台袖でとんびの落語を聴きながら徐々に気分が落ち着いていった。さっきの新緑の中に映える清々しい田圃の景色が頭に浮かぶ。
 それにしてもあの爺さんと会うといつも調子が狂う。咲太はそう思う一方で、久しぶりに爺さんの顔を見てから、何か必要なものを手に入れたような、落語に対する自信を得たような気がしていた。とんびが頭を下げて高座を下りてきた。いよいよ咲太の出番だ。 
 みかんの話では、とんびがまくらでみかんと咲太の事をべた褒めしてたらしい。落語の世界は全員がライバルだ。足の引っ張り合いはよく見るが、そうやって後輩の後押しをしてくれる先輩はそうはいない。だからとんびの気持ちが咲太には本当に身に沁みた。ここに集まった客達は皆、とんびの落語が聴きたいはずで、みかんと咲太にとってはアウェイとまではいかなくてもホームではない。そこを少しでもホームに近づくようにしてくれたのだ。咲太はその気持ちに応えたかった。
 咲太が出囃子に乗って袖から軽やかに出て行くと寄席の時とは明らかに違う拍手が来た。拍手とはこれほど温かいものだったかと安堵した。久しぶりの高座に上がって頭を下げる。同時に出囃子が止み、また拍手。顔を上げると、これからどんな落語を聴かせてくれるのかと期待が向けられているのがわかる。それは人間ばかりでなかった。さっきの世話人を除いてそれぞれの肩に洩れなく貧乏神が乗っていてこちらを楽しそうに見ている。あの爺さんが浅草の梅よしで「これがみんな落語の客だったらなあ」と言っていたことが本当になったようだった。ここで「死神」を演ろうものなら一斉に咲太に憑いてくるのだと想像するとぶるぶるっと震えるような気持ちになって冷や汗が出た。
「えー、とんびあにさんが、何やらアタシのことを良く言ってくれたそうなんですけど、実はそれを聞き逃しちゃったんですよ。ここんとこすっかり悪口に慣れちゃって、滅多に褒められないんで、聞きたかったんですが、本っ当に残念っ! ってそんなに力入れるこたぁないんですが。それというのも、こうやって助演で呼んで頂いた高座で落語を演るのが、ほぼ半年ぶりなんで。あ、今、『こいつ大丈夫か?』みたいな空気になりましたけど、傷つくんでやめて貰っていいですか。って悪口に慣れてねえじゃねえかって話ですが。えっと何の話でしたっけ。ああそうそう。どうしてとんびあにさんの褒めてるのを聞き逃したかと言うと、なんせ久しぶりの高座なんで緊張しちゃってもよおしちまいまして。後輩なんで袖でちゃんと勉強させて貰おうと思ってたんですが、ほら、憚りを我慢すると健康に良くないって言いますでしょ? 知ってます? ……あの、もう少し落語に参加して貰っていいですか。トイレを我慢すると体に障るってんで、憚り行っちゃって戻ってきたら、もう終わってたんですよ、褒めるくだりが。みかんさんに教えられましてね、今とんびあにさん、アタシたちを褒めてたんですよぉ、って。だからとんびあにさんが下りてきてすぐ、もういっぺんやってくれって言ったらひっぱたかれましたけども」 
 なんて具合に探りながら「強情灸」に入る。咲太は日ごろの稽古をぶつけるつもりで無我夢中で演り切った。頭を下げると、万雷の拍手が鳴り響き、緞帳が下がるまで鳴り止まなかった。会場は大盛り上がりで仲入り休憩となった。
「おい咲太! お前、半年ぶりの脇の仕事って嘘だろうが。あんな落語演りやがって。誰の独演会だと思ってんだよ」
 とんびが満面の笑みで咲太に絡んだ。
「あんなにウケるって知ってたら『死神』演らせれば良かったなあ」
 みかんが悔しさを滲ませながら絡む。
「いや、さすがあにさんの客ですよ。みんな優しいんすよ」興奮が冷め切らない咲太は、とんびに礼を言い、
「『死神』演ったらどんな悲惨なことになるか知らねえだろ」とみかんに文句を言った。
「悲惨な事ってなんです?」
「だから、俺のセコな『死神』なんて演ったら、せっかくとんびあにさんが温めた客席をスンってさせちゃうだろうっての」咲太はとっさにごまかした。
「じゃあ『強情灸』はセコじゃないって自覚があったんですねぇ、へぇ」
「うるせえなぁ」
 咲太とみかんのやり取りを嬉しそうに聞いていたとんびは世話人の一人に呼ばれて楽屋を出た。入れ違いに例の世話人が入ってきた。駅まで迎えに来てくれた、みかんの貧乏神と合体して消滅した貧乏神が憑いていた老紳士だ。
「お二人に折り入ってお願いと言いますか、ご相談があるのですが」
 咲太とみかん、そしてそれぞれの貧乏神が神妙な顔になって耳を傾けた。
 老紳士の話は、とんびのトリネタの事だった。
「きっと私達がいつも聴きたがる『柳田格之進』を演ってくれると思うのですが、もしそうなら変えて欲しいんです。もちろん普通の状況ならぜひ聴きたいのですが……」
 助かる見込みが極めて低い難病を患っている娘がいるとんびが、落語の中で、病気ではないとは言え、娘が犠牲になる噺を演るのは酷なのではないか。客席も居たたまれない気持ちになるのではないだろうか。そう心配しての申し出だった。
「お二人からなんとか上手く言って頂けませんか」
 咲太もみかんも曖昧な返事しか出来なかった。本人が演ると決めたネタを脇からどうこう言うのはご法度だ。さすがのとんびもそんなことを言われたら好い気はしないだろう。
「どうします?」老紳士が楽屋を出て行くとみかんが聞いた。
「どうもこうも、言えるわけないだろ」
「ですよね」
 仲入り休憩が明けた。とんびの出囃子が鳴る。咲太よりも軽やかに笑顔で高座に向かっていく。大きな拍手に包まれながら頭を下げるとんび。さらに大きな拍手が起こる。この高座でしばらくとんびの高座が聴けなくなることを知っているし、とんび家族への想いが乗った拍手だった。咲太もみかんも思わず目頭が熱くなる。とんびが頭を上げる。一瞬涙が浮んでいるように見えたが気のせいか。すぐに話し始めた。
「えー、さっき、せっかく褒めたのに咲太さんが聞いてなかったというんで、もういっぺん同じことやりますが、いいですか」
 客席がどっと湧いた。
「おい、咲太、今度は耳の穴かっぽじってよーく聞いてろよ」とんびが上手の袖にいる咲太に向かって言うとまた客席が湧く。
「腕が確かなのは、さっきの高座で証明されたと思います。あと、3か月ちょっとですか、この秋、晴れて真打に昇進しますので、皆さん、ぜひ、応援に行ってあげてください。最近はあまり良い評判は聞かないんですが、根は良い奴だし、誰よりも落語が好きな奴なんです。最初ちょっと売れたもんだから調子に乗って一時は芸が荒れましたが、最近になって良いご婦人でも出来たんでしょうか、どういうわけかまた持ち直してきた。でね、あいつ借金だらけでどうしようもない奴なんですが……」
 ここで舞台袖から「ちょっとあにさん、もっとイイ事言ってくださいよ」と咲太が出てきてまた客席が湧いた。
「これから言うから、あっち行ってろって」
「頼みますよ」と咲太が舞台からはける。
「あれ、なんだっけ。ほらお前が出てくるから言う事を忘れちまったよ。ああそうだ。とにかく秋、紅葉家咲太の真打昇進、お祝いに駆けつけてあげてください。そして、この会の事なんですが、アタシが休業した後もぜひ続けて欲しいんです。今日の開口一番を務めてくれた、妹弟子のみかん。ぜひこのみかんに引き継いで貰いたいと思ってます」
 客席から拍手が起こる。そしてまた舞台袖から咲太、そしてみかんが出てきて、
あにさん、今の流れだと絶対そこは咲太でしょ」大げさに納得がいかないというジェスチャーをする咲太。
あにさん、前からずっと尊敬してたんですぅ。ありがとうございます!」みかんも調子を合わせてやや大げさに礼を言う。
 もちろん、二人とも初耳だったが、とんびが妹弟子に仕事を引き継ぎやすくするための演出なのはすぐにわかった。こういうアクシデントを共有する事で会場が一体となる。出演の芸人と客の距離が一気に縮まるのだ。
「二人ともいつまでいるのよ。もういいから、引っ込みなよ」
 とんびのきっかけで二人とも舞台からはけた。問題はここからだった。果たしてとんびは何を演るのだろうかと身構えた。
 

「良い会だったよな」
 帰りの新幹線。咲太は禁酒中なので、珍妙な顔をしたみかんを無視してノンアルビール、みかんは普通の缶ビールで乾杯し、お土産にもらった弁当を肴にささやかな打ち上げをしていた。とんびも早く家に帰りたいだろうに、義理難く客の家に一泊してから東京に帰ることになった。
「とんびあにさん、『八五郎出世』でしたね」
『八五郎出世』は演り方を変えて『妾馬めかうま』とも呼ばれる演目で、母と妹と暮らす八五郎が主人公の人情噺。妹が殿様に気に入られて側室になって大騒ぎ。玉の輿でめでたい一方、気軽に家族と会えない身分になってしまった。八五郎が殿様の酒席に呼ばれる場面が見せ場で、最後は八五郎も侍に出世する。縁起が良い場で演じられる事が多い落語だ。とんびは八五郎も殿様もニンに合っていて、たっぷり笑わせてから泣かせる。
「心配する必要なかったな」
「あたしたちの話、聞いちゃったんですかね」
「そんなわけねえよ。あん時、どっかに行ってたし」
 おそらく世話人同士で役割を決めていたに違いない。一人はとんびを連れ出し、一人は咲太とみかんに相談する役目だったのだ。
「とんびあには最初からわかってたんだよ。あの人らが気を揉むのがわかってた。だから一席目から俺らを持ち上げてさ」
「後輩の昇進のお祝いにって、出世噺を演るなんて、粋ですよ」
「みかんも良かったじゃん。あんな良い仕事を貰えて」
「他の兄さんに妬まれそうで怖いですけど」
「噺家はすぐ妬むもんなぁ」
 とんびが一門の妹弟子のみかんに良い仕事を渡した事と、あの貧乏神の消滅は何か関係あるのだろうか。これから一緒に仕事をする関係になって、互いに得る物があると言えばある。いわゆるウィンウィンの関係ってやつだけど、そうなることが予知されたから互いの貧乏神が消えたのか、消えたからそうなったのか。どっちだろうか。考えてもわからない。咲太は欠伸を一つした。隣でみかんは一生懸命にスマートフォンを操作している。きっと今日の会の事を呟いたりしてるに違いない。散々楽屋などでスリーショットやツーショット撮影をさせられたのだ。咲太は「東京駅に着いたら起こして」とみかんに頼んで目を瞑った。それにしてもあの爺さん、あんなところで何してたんだろうか。仕事って本当かよ。
 
 今回のとんびの仕事は、咲太にとっては久しぶりの地方の高座にも関わらず、手応えのある落語が出来た。それだけで咲太にとっては大きな収穫なのに、とんびが出演料に色を付けてくれていた。咲太は分厚くなったポチ袋を神棚に上げて手を合わせた。次にとんびの家の方角に向かって手を合わせた。
 咲太はその金ですぐに電気とガス料金を払い、待って貰っていた家賃二か月分を払った。ほとんど残らなかったが、金を手にしてもギャンブルや酒や遊びに使う気が起きない自分が誇らしかった。手応えのある落語を演れて、大いにウケて、たっぷりとタロ(出演料)を貰い、払うものを払って、これまで味わったことがないほどの充実感を味わっていた。やっぱり自分には落語しかない。落語が好きだ。真打昇進のための金はもうなるようにしかならない。どうなろうとも良い落語を演れるだけで十分だ。そう開き直って稽古に出ようとした矢先、珍しく携帯電話が鳴った。仕事の電話かと期待したが、師匠の紅葉家柳咲からだった。
「大事な話があるからうちぃ寄んなさい」
 柳咲はそれだけ言うと電話を切った。
 咲太は、すぐに師匠の機嫌が良くないことがわかった。
 
 
つづく


#創作大賞2024 #お仕事小説部門
 

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?