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日ごろの欲求が「ひらめき」を生む

 現役時代、私は車で片道1時間ほどかけて事務所へ通っていた。当然ながら、往復で2時間を費やすこの時間は運転のみであり、仕事はできない。
 私は商業ドライバーではないから、なん時間運転しようとそれ自体が利益を生みだすことはない。だから、普通に考えれば無駄に思える。
 ところが、私にとっては無駄でなく有意義だった。運転中にアイデアがひらめくことがよくあったのだ。

 事務所でパソコンに向かって仕事をしていても、いいアイデアが出なくて停滞することがある。そんなときはその作業をいったんやめて別のことをする。日常生活の場合も同じで、なかなかいい案や解決策が出ないことがあると、考えることをやめて別の行動をする。
 なん時間、あるいはなん日かたつとまた考える。それを繰り返す。

 すると、あるとき突然ひらめくのだ。それまでいくら考えても出てこなかった名案や解決策が。それが運転中によくあった。
 求めている答とは関係のないことを考えているときでもあったし、ただ漫然と運転しているだけのときでもあった。

 どうしてそういうことが起きるのかを考えてみた。すると、確実に言えることがひとつだけあった。それは「なん回もなん回も、間をおいては考えることを繰り返した」結果だった、ということだ。

 うまい例えが見つからないので、ぎこちないのを承知で説明するが、ひらめきは、酒や醤油を醸造するのに似ていると思う。答を求める「欲求」という名の「仕込み」をして、「考える」という名の「発酵」を続ける。
 するとあるとき、「答」という名の「熟成」が完了する。要するに、ひらめきには欲求と時間の組み合わせが必要不可欠ではないかと思う。

 脳の仕組みなど知らないが、潜在意識だかアルファ波だか、そういったものが関係しているのかもしれないと思う。自分が知らないうちに潜在意識がせっせと働いていて、その成果が、脳波がアルファ波になったときなどにひょっこり顔を出すのではないかと。

 「欲求」という「仕込み」と言ったが、これは絶対欠かせない。欲求は必須で、たとえば、(あくまで私の勝手な想像だが)折りたたみ式こうもり傘を考案した人は、傘をさすたびに「まったく、邪魔で厄介だな」とか「長いからカバンにもはいらないし」などと思っていたろうと思う。
 「この厄介さをなんとか解消できないものか」という思いが「欲求」だ。言い方を変えれば「ひらめきのタネ」と言える。

 だから、ふだんあまり傘をささない人や、さしたとしても、厄介だとか扱いに困ったとかという思いや経験がなかった人が、いきなり「折りたたみ」という発想にいたることはあり得ないはずだ。
 必要は発明の母というが、まさに「欲求はひらめきの母」なのだ。

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