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わが身をつねっても人の痛さはわからない

 自分も同じ苦痛を経験してこそ他人のつらさがわかるものだ、という意味の「わが身をつねって人の痛さを知れ」ということわざがあるが、ことわざはあくまでも例えや比喩だ。ストレートに解釈してはいけない。

 私は女性の妊娠や出産がなにほど大変なことかがわかる(つもりだ)。わかるけれど、それは理屈で理解しているにすぎない。
 私の妻は3人の子供を産んだ。そばにいる私としては、妊娠や出産についてそれなりにいろいろ理解している。しかし、いくら私が想像しようと逆立ちしようと、妻本人の大変さは実感できない。
 嘔吐の経験は山ほどあるが、つわりのつらさとは違うだろう。けがや病気でからだを気遣った経験はあるが、寝ても覚めても胎児や自分自身を気遣う妊婦の心境とは異なる。陣痛や分娩となれば、私にはわずかな知識と想像で推測することしかできない。

 次のふたつは自分の話。
 ひとつめ。 
 たいしたことではないが、私はこのところ体調を崩している。この不調を、ある友人に話す必要があったので詳しく説明した。
 しかしわかってもらえなかった。「それは大変だね」「うん、わかるわかる」などと言っていたが、実際にはわかっちゃいない。わかっているのはうわべだけで、私の苦悩などはほとんど理解できていない。
 そもそもその友人は考え方や物事の捉え方がすべてプラス思考で、危機感などは持ち合わせていない(私はプラス思考を否定しているのではない)。話す必要があったからしかたなく話したが、まるで温室栽培の野菜に外気の冷たさを説くのと同じようなものだった。

 ふたつめ。
 親戚のA氏は善人で親切だがちょっと思慮がたりない。
 身内が数人集まったある日、昼食にカツ丼の出前を取ることになった。しかし、私はまだ腹がへっていないからと断った。
 それでもA氏は「カツ丼の一杯くらい食べられるよ」とか「だいじょうぶだよ」などと言って、私がいらないというのを無視して注文した。ありがた迷惑だ。
 結局私の分も出前されたが、私は意地になって箸をつけなかった。
 私の腹のすきぐあいが他人のA氏にわかるはずがないではないか。なのに「カツ丼の一杯くらい食べられるよ」だと? 何を根拠に言っているのだ。人の腹の中はわかるまい。

 おお、今日はなんだかばかにエキサイトしたぞ。いや、エキサイトなどはどうでもいいが、とにかく、痛さも痒さも、楽しさも悲しさも、本人のことは本人にしかわからない。
 心やからだの痛み以外にも、家庭や職場の悩みほか、生きて行くうえにはさまざまな問題がある。
 失恋した人の失意やダメージの状況は当人にしかわからない。「女(男)なんてほかにいくらもいるんだから。さ、元気出して」なんていう慰めは無味乾燥。女(男)なら誰でもいいというわけではない。

 いくら自分の身をつねっても他人の痛さはわからないし、逆に、どんなに他人の身をつねってもその痛さは自分ではわからない。
 なかなか厄介でむずかしい。

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