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おかずがなかったので

 ある日、昼食を摂ろうとしたら、ご飯はあるがおかずがなかった。家人は不在だったから、何か作りたければ自分でやらなくてはならない。しかしその気はない。卵があれば卵かけご飯ができるが卵はない。納豆もなければふりかけもない。
 こういうときのために、たいていはカップ麺や袋麺を常備しているのだが、その日はそれさえなかった。
 結局、おかずなしで米の飯の主食だけという、じつにもの哀しい食事をするはめになった。

 だが、そこへ一条の光がさした。食材を収納しておく棚を執念でさがした結果、永谷園のお茶漬けを見つけたのだ。おおっ、なんという僥倖!
 しかし、せっかちでものぐさな私は湯を沸かすのが面倒な気分だったし、どういうわけかお茶漬けは気が進まないという心境だった。
 そこで、そのお茶漬けのもと(こういう呼びかたでいいのだろうか)をふりかけの代わりにしようと思いついた。なんという非凡な発想、というか、ただの横着にすぎないのだが。

 なぜ、こんな単純なことに気づかなかったのだろう。お茶漬けのもとは、見るからにふりかけそっくりではないか。何がどう違うというのだ。
 私はさっそく飯碗にご飯をよそい、電子レンジであたためた。ふりかけなら、あたたかいご飯のほうがいいのはわかりきったことだ。
 私はいそいそとお茶漬けのりの小袋の封を切った。そしてご飯の上に振りかけた。

 見事に「ふりかけ風」の見映えになった。どう見ても普通のふりかけだ。私はちょっとどきどきした。
 わくわくしながらひとくち食べてみる。おお、これは立派なふりかけだ、と思ったが、やはり違和感があった。現実はそう甘いものではなかった。
 まず、細長い「あられ」の存在感があった。食うと、ぱりぱりというかぼりぼりというか、小さくてもまさにあられ、煎餅のような歯ごたえなのだ。お茶漬けにすれば湯によって軟らかくなるからいいが、ふりかけにした場合はやはり難がある。ただし、食えないわけではないから、私はばりばりと音を立てて食べた。

 難はもう一点あった。しょっぱい。塩辛い。つまり塩分が濃いのだ。ご飯にかける量を少なくすればいいだけの話だが、本来のふりかけに比べると明らかに塩分が多い。
 ふりかけも、小分けにされていない大袋のものと、小袋に分けて大袋に入れられているものがあるが、その小袋単位で比較すると、お茶漬けのもとのほうが塩分が多いはずだ(数値のデータでなく、私の食感で)。
 素人考えだけれど、同じ一杯分のご飯でも、お茶漬けなら湯が加わるから塩分を多めにする必要があるのだと思う。

 ふりかけとお茶漬けのもと。やはり、似て非なるものであることがわかった、もの哀しさのなかにもちょっぴり感動と発見のあった昼食であった。

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