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言葉づかいが乱れちゃった

 浅学非才の自分を棚に上げて言うのも気が引けるけれど、日ごろ見聞きする言葉のなかで、気になるつかい方をしているものがあるのであげてみる。
 新聞のテレビ欄や雑誌の広告などで「号泣」という言葉を見かける。noteを活用されておられるクリエイターの皆さんはご承知かと思うが、号泣とは大きな声をあげて泣くことだ。ところが、その誤用が多い。

 新聞のテレビ欄や雑誌が言う号泣とは裏腹に、番組のふたを開けてみたり実際の様子をさぐったりしてみれば、めそめそ泣いていたりとか、しくしく泣いていたりという程度の泣き方だったりする。
 号泣という言葉を宣伝文句につかった関係者が、号泣の泣き方を知らなかったなどということは考えにくい。ということは、視聴者や購読者の興味を惹きたいがために、意図的につかったのだろう。
 平然とそういう仕事をしているプロがいるとしたら残念だ。仕事や自分自身に自尊心を持っていただきたい。

 言葉の変化や乱れはいつの世でも見られるが、平成時代のひところ話題になっていた「ら抜き」などは、いつのまにやらすっかり市民権を得てしまった(古い時代の著名な小説家がつかっていたなどという例もあるらしい)。
 昨今では、こんな知的な人が、と驚くような人物でさえ「出れます」だの「食べれません」だのと言っている。
 テレビ番組の街頭インタビューで「見れません」と答えた人がいても、放送時の字幕では「見られません」と出るのがせめてもの救いだ。
 
 言葉にもっとも影響を与えやすいのはテレビやインターネットだろう。伝わるスピードも速いし範囲も広い。特に、名の知れたタレントや歌手、俳優などが話す言葉は与える影響が一段と大きい。
 バラエティー番組などでは、乱れた言葉をつかう芸人などがよく出演しているし、そういう人たちが多数を占めている番組もある。
 また、消費者の気持ちを惹きつけることを意識しすぎた結果、良識をどこかへ置き忘れてきてしまったようなコマーシャルもある。

 そこで、せめて言葉のプロであるアナウンサーには正しい言葉をつかってもらいたいと願うところだが、こちらにもあやしげな現象が起きている。一部の若手の中には世間の顰蹙を買うような言葉づかいをしている人もいる。
 アクセントも変で、「暑い夏」が「厚い夏」に、「突く」が「着く」や「付く」になってしまうようなこともある。

 こうした乱れを正す気があるなら、国語の授業に盛り込むなどで多少はどうにかなると思うが、国の教育関係者などもそこまで手が回らないのか、あるいは気にかけてもいないのかわからないが、教育現場にまで乱れが見られるのは問題だ。
 かなり前の話になるが、某小学校の入学説明会で、校長先生が「ら抜き」を連発し、進行役の女性教師は原稿のミスに気づいて「ヤバッ」などと言っていたそうだ。教育現場にしてこのありさま。まさに言葉もない状況だ。

 「ハンパない」という言い方を見聞きするようになって久しい。「半端ではない」が変化した言い方だと思うが、いつごろから、どういうわけで幅をきかせるようになったのだろう。
 従来のつかわれ方が変化し、それが定着するためにはそれなりのわけがあるはずだ。言いやすい、合理的だ、耳に心地よい、目立ちたい、などだ。
 言葉は生き物というけれど、やはり違和感を覚える。なんだか、言葉の乱れ方も「ハンパない」ようだ。

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