見出し画像

2023年師走の凡脳日和

 12月になると走り出す師とは、坊さん、つまり僧のことだが、平安末期の国語辞典「色葉字類抄」に、「師馳」、師が馳すという意味の言葉が記されているという。
 昔、民間では毎年12月に、僧を家へ招いて経をあげてもらうという仏教の慣習があった。このため、僧があっちこっちへ忙しく走りまわっていたのだという。
 ほんとうに走りまわったら息が切れて読経が大変だし、運動不足の僧や高齢の僧などは身がもたないだろうが、それはさておき、「師走」とは、世相や風俗をみごとに映したなかなか風情のある名だ。

 年賀状を、ちゃんと元旦に配達されるように出したことはあまりない。もっとも遅いときでは小正月も過ぎてしまった20日頃に出したことがあったが、これなどはわざわざ自分のずぼらさと能天気さを宣伝したようなものだ。
 返事も同様で、ただでさえ軽い頭が、テレビの正月番組などにおかされてたるみきっているから、松がとれてから相手に届いたりする。

 年賀状出し遅れの最大の原因はものぐさな性格にある。それを棚にあげて八つ当たりするわけではないが、そもそも年賀の挨拶を前年に書くというのは、手まわしがいいには違いないが何となく変だ。例えば、「私はいま、京都のホテルで夜景を見ながらこのハガキを書いています」などという便りを、旅行の出発前に書いて投函するようなものではないか。
 年賀状も然り。相手に届くのが3日になろうが4日になろうが、年が明けてから書くのが正しいと思う。もっとも、仮にそうだとしても、ものぐさな私はどうせその日延ばしにしてしまい、やっぱり遅れるに違いないのだが。

 本来、私は雑踏や人混みが嫌いなのだが、歳末セールなどで賑わう師走の街は好きだ。理由の説明にはちょっとだけ長い前置きが必要だ。
 現代ほど物も経済も豊かではなく、社会全体の動きがゆっくりしていた古きよき時代、毎月一定の日に、神社や寺の境内などで市が開かれていた。売っているのは食材や衣類、小間物や雑貨などの生活用品全般だ。

 その市のうち、師走に開かれるものが特別に「歳の市」と呼ばれ、門松や注連飾りなどの正月用品も売られていた。生活用品も、通常よりは高級なものが並べられる。もちろん正月用だ。
 当時の正月は、形骸化してしまった現代のそれとは比較にならないほど重要で神聖な行事だった。必然的に、歳の市の意義や存在感も大きくなる。庶民は歳の市のための金を特別に蓄えておいたほどだった。
 と、ここまでが前置き。すみません。

 で、もちろん私はそういう時代の人間ではないが、頭が軽い割に想像力だけは多少豊かな私の脳裡に、当時のようすが想い描かれる。それは、悲喜こもごもの一年が終わるという複雑な感慨や新年への希望を胸に、こつこつ貯めた大事な金で品物を買い求める光景だ。
 正月は仏教行事であり、当時の人たちは幸せを神仏に求めていた。その純真ともいえる厚い信仰心のなかに、現代では薄れつつある心のあたたかさや人間味を感じるのだ。
 いまは金や物が幅をきかす時代になってしまったが、それでもわずかに、市に似た雰囲気が漂う歳末セールに、古きよき時代の光景がオーバーラップする。
 これが、〝物は貧しくても心は豊かだった時代〟を好きな私が、師走の街に思いをめぐらす理由なのだ。

 まだもうしばらくは慌ただしい日が続くが、この「慌」という字は「心が荒れる」という意味であることはよく知られている。心が荒れてはありがたくないが、慌ただしさも、処し方次第では浮世の妙として楽しめようというもの。さて、どう処すか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?