記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

「青春18×2-君へと続く道-」レビュー(その3)~人が旅に出る理由~

※ネタバレが大量にありますので、映画を見た方のみお読みください。

■それぞれの旅の理由

この映画は旅がテーマになっている。
2人の主人公がそれぞれ旅をするが、この2人の主人公が旅に出た理由というのが物語のキーになっており、とても重要なポイントだ。
この旅に出た理由について、映画の中でそれぞれにトリックが仕掛けられていて、それらが映画の終盤で種明かしされることによって、前半で展開される物語がまるで違った景色に見えてくる。
演出上かなり高い効果があって、この映画の重要なポイントを際立たせている。
 

■アミの旅の理由

アミが旅に出た理由は、劇中ではほとんどその経緯は示されていない。
しかし、映画のパンフレットの中に、登場人物のキャラクターシートの一部が記載されていることが分かった。
藤井監督は、出演俳優へ役のキャラクターシートを渡して、役のイメージを共有するということを行っているという話は聞いていたが、まさか公式のパンフレットに記載されているとは。
アミのキャラクターシートについては完全にネタバレになっており、予告編もそうだが、アミの運命というのはもはや最初から観客に隠そうとしていない。
そのこと自体は重要ではなく、言いたいことはほかにあるのだろうと想像できる。
映画の内容はもちろん、このアミのキャラクターシートをもとにアミが旅に出た理由を考えてみる。
 
アミが絵を描きながらバックパッカーとしての旅に出た理由は、ジミーが旅に出た理由と対になっており、この映画の核心である。
映画の中では「自分が自分であることを確かめるため」とアミが語っている。
絵を描くならだけなら、旅に出なくともできるがなぜ旅に出たのだろう。
そこについては、映画の中では具体的には示されていない。
それを補ってくれるのが、パンフレットにあったアミのキャラクターシートである。
 
ポイントは、アミが病気がちで、生まれてからずっと故郷にいるという点だろう。
生まれてから環境が変わらず、生きている実感を得にくくなっている。
アミがかかっている病気が、肥大性心筋症という難病の設定で、この病気の怖いところは、突然死のリスクが高いことだ。
何も出来ないまま、故郷で、自宅で突然死の恐怖におびえながら、暮らすのか。
その環境からの離脱を図ったのが、県内の美大に進学(おそらくは自宅からの通学)だが、2年も経たないうちに大きな発作で入院、休学を余儀なくされ、また自宅の生活に逆戻りをしている。
ますます自らの「死」を意識せざるを得ない状況、その象徴となってしまった故郷からの離脱を計ったのが、台湾への旅だという設定なのだろう。
 
なぜ、その旅の目的地に台湾を選んだのかについても、キャラクターシートで補足してある。
基本的に雪の降らない台湾の人たちの雪に対する憧憬は日本人が想像している以上だというが、雪国に生まれたアミが、雪の降らない南国に憧れのような感情を持つというのは、とても自然なことだ。
初めての海外旅行としては、行きやすいところでもある。
 
アミの体の状態で、単身で海外旅行へ行くなどと行ったら家族は猛反対だろうと思っていたが、やはりそのような設定になっていて、その反対を押し切ってアミは旅に出ている。
映画を見ただけでは考えなかった要素としては、アミの焦りだ。
突然死のリスクが高い病気ということになると、自分に残された時間そのものが分からない。
5年後、10年後の生存率という確率だけでははかれなくなっている。
行ける時に行かないと、どうなるか分からない。
その焦りが、その病状にありながら海外へ旅をすることを選択させた大きな要因になっている。
台湾で広く通じる広東語も英語もほとんど出来ないのに、ひとり旅に出たアミの行動の無謀さに違和感をもつ向きも多かったが、それすら待てないアミの焦りがあったとすれば一応説明がつく。
 
劇中でのあったように、旅にあっても、服薬をしないといけないし、動くと倦怠感はあるので、自らの病気を全く意識しないというわけにはいかないが、それ以上に、故郷とは異なる、知らない環境に身を置けば、自分の病気はほとんど意識の外に置くことが出来る。
ずっと自分自身の病気に拘束され、自由に行動できず、自分の病気の閉じ込められていた環境からの解放としての旅であると同時に、自らの「死」と向き合わなくて済む逃避としての旅でもある。
 
劇中では、それをアミの表情で表している。
故郷の只見駅で旅へ出る時のアミの晴れ晴れとした表情(天気は晴れ。夏の只見は晴れ間も多い。)、台南に着いたばかりの楽しげでワクワクを抑えきれないアミの表情が非常に印象的だ。
 
アミの旅の理由として、もうひとつ重要なのは人との関わり方だ。
旅は、一期一会を繰り返す。海外旅行なら言葉もそれほど通じないなら、なおさら関係性が深まることはない。
自分のことを知らせる必要もないし、自分のことを知ってもらうような状況にはない。
それはとても気楽なこと。
アミのキャラクターシートの中で、大学1年の時に先輩と付き合ったが、主に病気のことが理由で自分から恋人関係から友達に戻ることを選択したとある。
このまま恋人として関係が深まっていけば、自分の病気のことも話さなくてはならなくなる。
だから、友達に戻った。
このモチーフは、「余命10年」にある。
病気だと分かった時点で普通の関係ではなくなる。
関係性が深まれば深まるほど、別れは辛くなる。
「余命10年」の主人公茉莉は、それが理由でなかなかその後恋人となる和人との関係を深められずにいる。
 
アミの設定からすると、高校生までは恋人ができるような状況にもなく、大学生になって初めて付き合い出すが、「深い」関係になるにはどうしても病気が支障になってしまうことは想像に難くない。
旅に身を置けば、そういう人との関わりからも解放される。
そうなるはずだった。
 
アミが財布をなくしてしまって、外国の知らない土地のカラオケ店で住み込みのバイトを申し込むというところは、若い女性がひとりで身の危険も顧みず無謀な行動で、いかにも映画中でしかありえないが、実はこれは原作のエッセイそのままである。
まあ、実際ならば携帯電話は実家にもつながるようなので、実家から帰りの旅費を送金してもらうというのが現実的な行動だと思うが、家族の反対を押し切って旅に出てきているアミとしては、それもやりたくない。
一見無謀な行動にも一応理由が立つような設定にはなっている(劇中にはでてこないが)。
アミの設定からすると、キャラクターシートにあるような生活を送っていて、あの快活で、積極的、ほぼ人たらしのレベルのコミュニケーション能力をもつアミのキャラクターがつくられるとは考えにくいが、アミのキャラクターは藤井監督の理想が詰まっているらしいから、まあいいか。
 
物語として重要なのは、やむを得ず働き出した言葉もまともに通じないはずのカラオケ店で、縁にもめぐまれ、台湾の人の人情に触れて、期せずして関係性が深まってしまうという点だ。
病気のために、まともに青春と呼べるときがなかっただろうアミにとって、偶然に働き出したカラオケ店で生活は、青春そのものといえるような経験している。
好きな絵も描かせてもらっているアミにとっては、これ以上ないような幸せな時間。
そんな中でも自分の病気のことは頭を離れることはない。
所詮旅の身、いつかは終わらせなければならないが、それを忘れてしまえる夢のような状況だ。
 

■アミが「Love Letter」を見てなぜ泣いたのか

それを現実に引き戻してしまったのが、ジミーの誘いで見に行った映画「Love Letter」だ。
なぜアミはこの映画を見て泣いたのか。
(このエピソードは、原作のエッセイにそのままあるという嘘のような本当の話)
劇中でその理由をアミが語っているが、ジミーに自分の病気のことを伏せているので、あまりピンとこない。
・「Love Letter」で出てきた雪国(札幌、長野)の景色で、自分の故郷只見を思い出した。
・大雪だと家から出ることさえ出来ないが、自分を育てくれた風景
・だけと、みんな置いてきてしまった
台湾の人には雪は憧憬の対象であるかもしれないが、そこで生活をしている人にとっては、生活を過酷にするやっかいなもの、というのは、そこで短い期間だが生活していた自分に身につまされる。
でも、地元に人はその雪さえ自慢の種、愛着があるものだ。
そこまではいいが、「みんな置いてきた」という言い方には引っかかるものがあった。
もう、故郷に帰るつもりがないような言い方にも聞こえる。
 
映画の終盤でアミ視点での回想シーンをみても、ここの釈然としない感じが払拭されなかった。
映画「Love Letter」を見ただけでははっきりしなかったが、アミのキャラクターシートを読んではっきりしてきた。
映画「Love Letter」では、雪は死のモチーフだといわれている。
主人公は雪山で恋人を亡くしているし、主人公の亡くなった恋人の同姓同名の女性は吹雪で救急車を呼べず、急病になった父親を亡くしている。
アミにとっての雪は、故郷の象徴であるとともに、自分から自由を奪い、自分の部屋へ自分を閉じ込めている病気のモチーフなのだろう。
大雪によって、自宅から出られないように。
台湾へ旅をして、自分の置かれた状況、病気のことから解放された気になっていたが、一気に現実に引き戻されてしまった。
 
さらに、映画「Love Letter」では恋人や肉親の死からまだ抜け出せないでいる人たちが描かれている。
関係が深ければ深いほど、それをなくした時の傷は大きくなる。
そう思ったから、そうなる前に恋人と別れてしまった自分のことを思い出してしまった。
「恋人のように」ジミーと映画を見に来て、「これってデートだね」とジミーをからかったばかりなのに、自分の病気が原因で別れてしまった初めての恋人との楽しかった時間を思い出してしまったのかもしれない。
旅が自分を病気であることから解放してくれたような気になっていたが、自分は病気から目を背けていただけだった、そのことを改め思い知らされてしまった。
 
カラオケ店に戻ってからも沈んでいるアミをジミーが片言の日本語で慰める。
映画館ではよこしまな考えがあったが、この時は気持ちが沈んでいるアミを純粋に慰めようとして、自然とアミの手に自分の手を置く。
この時アミは何を思ったのか。
ジミーの純粋に自分のことを慰めようとしてくれていることは十分わかったはず。
「深い」関係になりかけて、自らその関係から身を引いたかつての恋人のことを思い出したかもしれない。
これ以上、ここにいたらまたあの時にように辛い思いをする。
そうなる前に、ここを離れないと。
こんなに楽しかったのに、みんなこんなに優しかったのに…
ジミーの手を離して、部屋に戻ってから、アミが号泣したのは、こんな思いがあったからではないか。
ジミーの手のぬくもりは、台湾の人の「情」そのものだ。
 
アミは福島県の会津地方にある只見の出身ということになっている。
会津地方には「会津の三泣き」という言葉がある。
他から会津にやってきた人は、こんな辺鄙な土地に来て寂しくて泣く。
次に、地元の人の情に触れ、うれしくて泣く。
そして、この土地を離れる時は、離れがたくて泣く。
日本の会津から来たアミは、異国台湾の地で人の「情」に触れ、この土地を離れがたくて泣いている。
人の「情」に触れれば、離れがたくなり辛くなるから旅に出たのに、やはり自分の運命から逃れられなくて泣いている。
そう考えると、アミが旅に出た理由も切ないけれど、アミが台湾を離れ、日本に帰えろうとした理由の方がもっと切ない。
 

■茉莉のアナザーストーリーとしてのアミ

さる映画業界関係者が映画「余命10年」のレビューの中で「この映画のテーマは『余命10年の中での日常性の構築』だ」とコメントしていた。
明日自分がどうなるか分からない状況で他の人との関係性をどう構築していくか、ということだが、主人公の茉莉はなるべく新たな関係性を作らないようにしているし、既存の関係性もなるべく深まらないようにしている。
自分の置かれた「余命10年」という状況を考えたら、当然の防御反応だと思う。
アミのように自分の身を旅に置いてしまえばどうか。
旅のみであれば人と会っても一期一会、「二度と会うことのない友人」が出来たとしても、関係性は深まることはない。
関係性が深まらないからこそ、その点では気兼ねなく「自分を確かめる旅」を続けることが出来る。
そのはずだったのに、偶然の出来事(「余命10年」では主人公の茉莉が恋人となる前の和人に通院しているのを見られてしまう。「青春18×2」ではアミが財布をなくして、お金が必要。)をきっかけに、他人との関係性が深まってしまうという点では、2つの映画は同じだ。
創作(茉莉にとっての小説、アミのとっての絵)をすることによって、2つの映画のヒロインは自分が自分であることを確かめている。
関係性が期せずして深まってしまった相手(和人とジミー)との出会いによって、自分の考え方、行動が変わっていく構図も同じだ。
映画「青春18×2」のアミは「旅をする茉莉」だったのだ。
 
原作のエッセイのアミは、世界一周旅行が目標のただのバックパッカーで(出身も福島ではなく、秋田)、アミが難病という設定は映画オリジナルだ。
そういう設定にした理由は、旅をテーマしたこの映画で、アミの旅の理由に意味を持たせたかったのではないかと思うのだ。
 

■ジミーの旅の理由

この映画の物語は、きっかけはどうあれ、主人公のジミーがアミの故郷へ向かう旅に出ないと始まらない。
では、ジミーはなぜ旅に出たのか。
仕事を失って、暇ができたたから。
たまたま、最後の出張が日本だったから、そのついでに。
記憶の奥底にしまい込んでいたアミからの絵はがきを実家で見つけたから。
これらは、全部きっかけに過ぎない。
むしろ、仕事を失い失意の中にあるジミーが、忘れられない初恋の相手とはいえ、18年も経ってから初恋の相手の故郷にわざわざ向かおうとする理由は何だろうか。
その辺の理由が曖昧なまま物語は進む。
 
劇中で、松本で出会った台湾人居酒屋店主に「初恋の人に会いに行くんだろう?」と聞かれ、ジミーは肯定している。
その直後に「会えなくても、アミの生まれたところを見てみたい。」と付け加えている。
(周囲に旅に出た真意を明かしていないという点で、ジミーとアミはパラレルになっている。)
考えてみれば、アミと出会った18歳の夏からもう18年も経っている。
18年前の住所に今も住んでいるかどうかも分からないのに、アミから送られてきた絵はがきに当時の住所だけを頼りに、会えるとは限らない初恋の人に会いに行くだろうか。
 
仮に18年前の住所に今も住んでいたとしても、アミが結婚しているかもしれないし、あの時の面影がすっかりなくなっているかもしれない。
(大人になると、実際ときどき経験するとても残念な場面だ。「Love Letter」を見る前に、現在の中山美穂の姿を見てしまっていたから尚更だ。)
会えたとしても、アミがジミーのことをすっかり忘れてしまっていても不思議ではないし、覚えていたとしても、歓迎されるとは限らず、つれなく対応されることも考えられる。
初恋の人の生まれ故郷を見てみたいというだけならともかく、18年も経って初恋の人に会おうとする行為は、自分の忘れられない大事な青春の思い出を自ら台無しにする可能性もある。
ただでさえ自分で設立した会社を追い出されて落ち込んでいるのに、そんなことになったら回復不能なほどのダメージを受けるから、とりあえず旅には出たものの、只見に行ってアミに会うかどうかジミーはまだ逡巡している。
そう考えると、松本経由の遠回りの理由も納得がいく。
ただ、失意の中にあるからこそ、過去のよき思い出に触れたい、すがりたいという気持ちは分からないわけではないが、そんなリスクを冒してまで初恋の人の故郷へ向かおうとするはっきりとした理由は、劇中では示されていない。
 
映画の中盤あたりまでで、なんとなくアミがもう亡くなっているのではないかという雰囲気は示されているので、観客はそのことを頭に置いて映画を見進めていくのだが、映画の終盤でで、ジミーは既にアミが亡くなっていることを知っていて、18歳の夏にアミと交わした約束を果たすために只見に向かっていることが分かる仕掛けになっている。
18歳の夏にアミと交わした約束というのは、お互いが自分の夢が叶ったときに再会しようという約束なので、生きているアミに会えないのは初めから分かっていて、あの夏の約束を果たすためだけにジミーはアミの生まれ故郷に向かったことが、映画の最後の方で観客には知らされる。
 
そういう視点で思い直すと、そのように見えなくもないシーンがいくつか思い起こされる。
特に旅の途中で、「元気ですか」と叫ぶシーン。
「Love Letter」を見ていなかったので、このシーンがオマージュであることすら知らなかったが、「Love Letter」を見たことのある人ならすぐ分かる有名なシーンらしい。
「Love Letter」のこのシーンは、主人公が、主人公の恋人が亡くなった八ヶ岳へ旅をして、八ヶ岳の山麓で主人公が既に亡くなっている恋人に向かって「元気ですか」と叫ぶシーンだ。
 
「青春18×2」を見た後に、監督、出演者のインタビュー記事もかなり読んだ。
その中でも、脚本も手がけた藤井監督のインタビューが非常に興味深かったが、インタビューの中で、この「ジミーの旅の理由」に関する話もしていた。
実は、脚本の完成期限直前まで、ジミーは旅に出た時はアミの死を知らない設定だったという。
その点が、どうも腑に落ちず、脚本の完成稿の締切直前で、ジミーはアミが亡くなっていること知っていて旅に出た設定に変えたということが藤井監督の口から語られている。
この物語で、主人公のジミーが、アミが亡くなっていることを知らずに旅に出るのと、それを知って旅に出るのとでは、ジミーの旅の意味合いが全く違ってくる。
主人公のジミーが、アミが亡くなっていることを知って旅に出ているとするなら、それはジミーが自分の過去と向き合わざるを得ない旅だということになる。
その意思がありながら、やはりアミの死を受け入れきれていなくて、逡巡がある。
(実はこの点も、「Love Letter」で主人公が、恋人が亡くなった八ヶ岳に向かう旅と同じで、「Love Letter」のオマージュになっている。)
 
映画の終盤で、「え、アミって亡くなってたの?」と驚いた人はほとんどいなくて、「ああ、やっぱりアミは亡くなっていたのね」と思った人が大半だろう。
そう思わせる作りになっている(本編はもちろん、予告編から)。
ジミーの旅の理由、意味合いに直結する「ジミーが旅に出た時に、アミが亡くなっていることを知っていたかどうか」という点については、「ジミーは旅に出た時に、アミが亡くなっていることを知らなかった」と観客に思わせる作りになっている。
(「ジミーは旅に出た時に、アミが亡くなっていることを知らなかった」としても、一見矛盾せず、違和感がないような描写になっている。)
映画の終盤で、そうではなくジミーは最初からアミの死を知っていたということを観客に明かし、ジミーが旅に出た意味を考えさせることを狙っていると思われる。
 
では、ジミーは、なぜもう亡くなっていることが分かっているアミに「会いに行った」のか?
アミは亡くなっているけど、アミに故郷に行ってしまえば、ずっと封印してきたアミの死に向き合わなければならないことを分かっていながら、あの日の約束(お互いの夢が叶ったらまた会う)を果たすために行くということになる。
 
ジミーがアミに2度目の電話をして、アミの死を知らされるシーン。
ここは回想シーンで音声はない。
この電話で、ジミーがアミの死についてどこまで知らされたのかは伏せられている。
 
その前に、アミが日本に戻ってあまり時間が経たないときに大学生のジミーがアミに電話をするシーンがある。(この時点では、ジミーはアミの状態を当然知っていない。)
季節は冬。アミから送られてきたのは雪景色の中、第一橋梁を渡る只見線の車両(海外で最も知られている只見線の風景だが、場所は只見町ではなく三島町)。
はがきには、「旅の合間に」アミは実家のある只見にいると書いてある。
ジミーは、大学の中と思われる公衆電話から国際電話をかけて、冬休みにアミの故郷只見に行ってみたいという。
アミは、電話越しの声のみ。
その内容、声のトーンはつれない。
アミから絵はがきをもらったので電話したのに、つれないアミの態度にジミーががっかりするというシーンだ。
 
ジミーの夢は叶ったの?
約束したでしょ、夢が叶うまでは会わないって。
私は恋人と一緒に地球の裏側に旅行に行くの。
もう電話切るよ。じゃあね。
とアミから諭される。
 
これが、トリックの種明かしの前振り、フックとして強烈に効いている。
進学や就職で離ればなれになった恋人が疎遠になり、だんだんつれなくなってくるのは、現実にもよくある話で観客の共感ポイントだ。
アミの心がジミーから離れているので、口実を作ってジミーが電話をかけてこないようしているようにも見えるこのシーン。
ジミーは、アミが電話越しに「帰らない!」と口論しているのを聞いて、彼氏とケンカしたまま台湾旅行に来たと勘違いするシーンがあり、アミに日本人の恋人がいて、恋人に「帰って来て」と言われたので、アミは帰国したとジミーは思い込んでいる。
観客はアミに恋人なんていないことに薄々気づいているから(これをアミ役の清原果耶が目の動きと表情、声のトーンで(観客に)示唆する演技をしているのがすごい)、ジミーの思い込みを「利用して」ジミーがアミに会いに来ないように、電話をかけてこないようにしているというところまでは観客は推測できる。
でも、実はそのときアミは・・・という種明かしがアミの回想シーンで出てきて、泣かされる。
アミは自分の夢が叶いそうもないことを知っていたから、本当はジミーからの電話がとてもうれしかったのに、まだアミに会えると思っているジミーをがっかりさせたくなくて、ジミーにこんな状態の自分を知られたくなくて、つれない態度をとってしまった。
自分の夢が叶いそうもないことではなく、ジミーの夢が叶っていないことを口実に。
純朴なジミーに嘘までついて。
ここが一番ぐっときた。
(アミがジミーから電話を受けていたのは、実は病床だったという設定がやりすぎだと感じている人も多いが)
 
もし、ジミーが、アミが亡くなっているかどうか分からない状態で旅に出ていたなら、ジミーはアミの母親からアミの死を聞かされることになる。
それはそれで劇的なのかもしれないが、ジミーの旅の意味合いという点からするとこの設定について藤井監督が腑に落ちず、脚本を変更したのは、正しい選択だったと思う。
ジミーが、アミが亡くなっているかどうか分からない状態で旅に出ていたなら、職を失い失意のジミーが、青春の思い出の象徴である初恋の人の故郷に行ってみたいというただの感傷旅行、とりあえずアミの故郷に行ったとしても、現在のアミに会うのが怖いなら会わなければいい、そんな心理的な保険も垣間見えてしまう残念な設定になっていたと思う。
 
初めてというのは特別だ。それが恋ならばなおさら。
しかも、ただの初恋ではない。
ドラマチックな出会いとドラマチックな別れ、そして相手が若くして死んでしまったなら、もはやありきたりな初恋とは呼べないだろう。
思い出の中でその想いは強められ、遠い日の儚い約束を果たすためだけに旅に出た。
それは、より特別な初恋の相手への想いの強さを示すのに他ならないが、映画の中ならともかく、「初恋の相手」というだけで、しかも18年も経過していて、そんなに強い想いを持ち続けられるだろうかという疑問を持った人も少なからずいたようだ。
 
その点を補う設定が、アミに出会った当時ジミーが目標を見失っているというところだ。
脚のケガでバスケを続けられなくなって怠惰な夏休みを送っている高校生、そんな息子を父親も心配していた。
アミに出会って、ジミーは生き生きしてくる。
(それを喜び、「そんな出会いはめったにあるものじゃないから後悔しないようにしろ」と言ってくれるジミーの父親っていいな。)
そして、アミが日本に突然帰ってしまうことが分かってから、アミが切り出した二人の約束。
お互い夢を持って、その夢が叶うように頑張ろう、と。
ジミーは、松本で出会った台湾人居酒屋店主に「アミに出会って自分は夢を持つことが出来た。アミとで会わなければ今の自分はない。」と言っている。
アミは単なる初恋の人というだけでなく、自分を今の自分へ導いた「特別な存在」として描かれている。
いやいや、アミの思いつきで言った「約束」を真に受けるなんて、ジミー純粋すぎるだろう、という突っ込みはさておき、この「単なる恋人ではなく、今の自分を作ってくれた特別な存在」というモチーフは、「余命10年」の中にある。
女性から提案した「約束」にまつわるこの構図は、「余命10年」の主人公の茉莉と恋人の和人の関係そのものだ(男性の方が「君がいなければ今の自分はない」と思う比重は「余命10年」の方が圧倒的に重いが。)
この「恋愛を超えた存在」というモチーフは、明らかに「余命10年」から持ち込まれているし、藤井監督もそれを隠そうとしていない節がある。
 
ジミーは、アミが亡くなったことを知り、アミとの約束は果たせなくなり、「心を失って」仕事に没頭するしかなくなって(劇中のジミーはかなりの仕事人間として描かれている)、仕事に没頭するあまり周囲から孤立して、自分で立ち上げた会社から追われてしまうことになる。
ある意味全てを失ったジミーが、アミの故郷へ向かう旅の理由がただの感傷旅行であるはずはなく、過去の記憶を辿りながら、これまでの自分と向き合う旅でなければならない。
旅がテーマであるこの映画において、二人の主人公が「旅に出る理由」は必然的なものである必要がある、そうしたい。
ギリギリで脚本を変えたのは、そういった監督の意図の現れだと思う。
 
清原果耶が試写の舞台挨拶で、試写を見たときに自分の中にアミがまだ残っていて、映画のジミーのシーンを見ながら、「ジミーはあのときこんなふうに思っていたんだね」とアミの気持ちになってしまって号泣したと話していた。
この脚本の組み立て方なら、映画のストーリーを当然知っている主演女優さえ泣かせてしまうのもあるだろうと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?