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「青春18×2-君へと続く道-」レビュー(その1)~ファーストインプレッション~

〔※ネタバレがありますので、映画をご覧になってない方は読まないでください。〕
 


映画というものをほとんど見ない。最近は特に。
恋愛映画などというものはなおさら。
そんな自分が、とあるきっかけで「青春18×2-君へと続く道-」という日本と台湾の合作映画を見た。
結論としては、深い余韻の残るよい映画だったので、その感想を書き留めておきたい。
 

■この映画を見るきっかけ

この映画を見るきっかけというのは、この映画のロケ地の1つに数年間住んでいたことがあるということだけ。
主演のひとり清原果耶は、これも仕事がらみでたまたま見ていたNHKの朝ドラ「おかえりモネ」の主演だったので知っていたが、もう一方の主演シュー・グァンハンについては全く知らず。
映画の予告編も見ず(後で思えば見ないでよかった)、映画の予備知識がほとんどない状態で、かみさんと二人で見てきた。
興味がないとすぐに寝てしまうかみさんが最後までちゃんと見て、面白かったというくらいだから、よい映画なんだと思う。
ちなみに、かみさんが映画とかドラマを見て泣いたのを見たことがない。
お涙頂戴系には全く反応しないドライな人である。
 

■恋愛映画というよりは初恋青春映画かつロードムービー

まずタイトルの「青春18×2」だが、恋愛映画と聞いていたので18歳の男女の話かと思っていたが、主人公の台湾の高校生は18歳だが、その初恋の相手の日本人女性は4歳年上の22歳という設定だった(演じた清原果耶の実年齢と同じ)。
36歳になった主人公が、初恋の相手の故郷である日本を旅しながら、18歳の夏休みの出来事とその後の18年間を振り返るということでこのタイトルだった。
 
18歳の夏休みの出来事というのが、主人公のジミーのバイト先であるカラオケ店に現れた日本人のバックパッカーのアミにジミーが恋をするという初恋物語なのだが、ここで描かれる夏休みの出来事は恋愛と呼ぶにはあまりにも淡く、初恋を含めて青春そのものという感じの出来事だ。
スクーターに2ケツして夜景を見に行ったり、バイト仲間といっしょにゲームして笑い合ったり、海に行ったりと、ちょっと過剰なぐらい「ザ・青春」の甘酸っぱいシーンが描かれる。
キラキラして眩しいものの、主役の2人の演技がうまいということもあって、見ていて、共感性羞恥心が発動されたり、押しつけがましかったり、嫌な感じは全くしない。
むしろ微笑ましいというか、自分にもこんな時があったかも(実際にはない)と思わせてくれる共感ポイントになっている。
 
青春18というと、18歳でなくとも買える普通列車乗り放題のJRきっぷの方を思い浮かべるのだが、この映画の中でも鉄道、それも日本でのシーンは普通列車でのシーンが多く使われている。
初恋の日本人女性の生まれ故郷へ向かう旅の中で主人公は過去の記憶をたどっていく。
 

■鎌倉から奥会津への旅

主人公が自分で設立したゲーム制作会社の代表を解任されるところからこの映画は始まるが、主人公は最後の出張で東京へ行くことになる。
そこから、主人公は初恋の日本人女性の生まれ故郷である福島県の只見へ向かうという設定なのだが、その路程がかなり変なのだ。
 
東京から只見に向かうならば、東北新幹線で郡山まで行き、そこから会津若松経由で只見線に乗るというのが一般的だが、この映画の主人公はそうはしない。
映画の中で確認できたのは、
 東京
→神奈川県・鎌倉高校前(江ノ電)
→長野県・松本(ホテル泊)
→新潟県・長岡(ネットカフェ)→(車)
→新潟県・津南町→(宿泊地不明・たぶん長岡のネットカフェ泊)
→福島県・只見
→東京
というなんとも遠回りでまわりくどい通常では考えられないルートで初恋の人アミの故郷只見に向かっている。
 
主人公は高校時代にバスケットボールをやっていて、スラムダンクのファンだったという設定なので、江ノ電の鎌倉高校前駅の踏切という聖地巡礼に行くのはまあいいとして、その後主人公のジミーは東北新幹線・郡山・会津若松経由の一般的な只見行きのルートを地図で確認しているにもかかわらず、次のシーンではなぜか松本駅に降り立っている。
松本で出会う主人公と同じ台南出身の台湾人居酒屋店主にも「只見に行くなら方向逆だろう」と突っ込まれている。
鎌倉から何で松本へ向かうのか謎だったが、主人公が長岡のネットカフェに貼ってあったポスターでたまたま津南のランタン祭を知り、津南に行ってランタンを飛ばさないといけないの、話の都合上、会津若松経由では困るのである。
 
ただ、松本から津南経由で只見へ向かうならば、飯山線で津南に行き、飯山線の終点の越後川口駅から小出へ行けば、小出から只見線で只見に行けるのだが、主人公は松本から、小出とは逆方向の長岡へ行っている。
 
主人公が旅の途中でランタンを飛ばすのは話の展開上ほぼマストだが、ランタンを飛ばすには物理的に2人以上必要なので、一人旅をしている主人公が駅に貼ってある観光ポスターで津南のランタン祭を見つけて一人で津南に行ってしまう設定だとランタンを飛ばせなくなってしまうのである。
そこで、一緒に津南まで行って、主人公と一緒にランタンを飛ばしてくれる人と出会う必要があり、その出会いの場所がネットカフェという設定になっている。
確かにこの周辺でネットカフェがあるところは長岡以外にはない。
 
この辺の事情は藤井監督のインタビューで語られているが、JR東日本の全面協力のもと、スラムダンク聖地巡礼やら津南のランタン祭やらあれもこれも鉄道で回れるルートをJRに考えてもらってこのルートになったらしい。
そもそも主人公の初恋の相手の故郷が福島県只見という設定自体、原作にはない映画オリジナルの設定で、JRが考えたのは、
松本→(篠ノ井線)→長野→(飯山線)→津南→(飯山線)→越後川口
→(上越線)→小出→(只見線)→只見
というルートだったと思われる(実際の撮影も飯山線で行われている)。
 
ただ、映画のストーリー上は、主人公のジミーが長岡駅に着くシーンがあるので、
松本→(篠ノ井線)→長野→(飯山線)→津南〔通過〕→(飯山線)
→越後川口→(上越線)→長岡→(車)→津南→(車)→長岡
→(上越線)→小出→(只見線)→只見
となっていると思われる。
(深夜の津南に主人公が取り残されても泊まるところがないので、黒木華演じるネットカフェの店員の車で長岡まで戻ったと考えるのが自然)
主人公は津南のランタン祭りを長岡で知ったという設定なので、途中で通ってきた津南にまた戻るのはまあ仕方ないとして、飯山線経由だとすれば飯山線の終点の越後川口から小出に向かわず長岡方面に行くのは、通常は方向を間違ったとしか考えられない。
ただ、その前に飯山線の車中で出会った18歳のバックパッカー幸次(道枝駿佑)にさりげなくネットカフェ泊を勧められているので、幸次と別れた後、飯山線の車中でネットカフェを検索し、ネットカフェのある長岡に向かったということになるのだろう。
 
この映画を見て、ジミーの行った場所の聖地巡礼をする場合は、実際には駅周辺にネットカフェのない長岡(あるのは郊外型のチェーン店)には行かずに、津南から直接只見に行って、主人公の日本での旅の起点であり終点である東京でネットカフェ店内の撮影に使われたネットカフェに立ち寄ることをおすすめしたい。
(長岡駅とネットカフェの入口として撮影した場所(おそらく長岡駅周辺か)を探しに長岡に立ち寄ってもいいけど、そこまでするとマニアックすぎるかな。)

■旅で出会う人々

主人公のジミーはこの日本での旅で、18歳の頃の自分の記憶をたどっていくのだが、旅の途中で出会う人たちは、その頃の記憶を呼び覚ますきっかけとしてジミーの初恋の相手アミが台南で出会った人たちになぞらえているようにみえる。
○松本:台南出身で松本に居着いてしまった居酒屋店主
→アミがジミーと出会うカラオケ店のオーナーは台南に居着いてしまった日本人
(両方とも旅をするジミーとアミに旅の理由を尋ねる役回り)
 
○飯山線の車中:18歳の大学生バックパッカー(コミュ力高めでぐいぐい人との距離を詰めてくる)
→18歳のジミーはアルバイトしていた台南のカラオケ店で日本人バックパッカーのアミと出会う(海外の見ず知らずのカラオケ店にバイトを申し込むほどの積極性(ほぼ無謀)と人好きのするキャラクター)。
 
○長岡のネットカフェ:年上っぽい女性店員由紀子(妙にフレンドリーかつ訳ありっぽく、ちょっとやさぐれ気味)がランタン祭りにバックパッカーであるジミーを連れて行ってくれて、一緒に津南でランタンを飛ばす
→アミ(もちろん訳ありのバックパッカー・フレンドリーで人気者)はジミーより4歳年上で、ジミーに台湾のランタン祭へ連れて行ってもらい、一緒にランタンを飛ばした。
 
話す言葉もパラレルになっているものが多い。
アミがジミーに対して「人生が長く続くなんて限らないよ」 
由紀子がジミーに「自分の夢を叶えられる人なんてほんの一握りだよ」
 
旅先でたまたま入った居酒屋の店主が主人公と同じ台南出身ということもそうあるとも思えないが、アミとの思い出のランタン祭が日本でもあることを主人公が「たまたま」旅先で知り、そのランタン祭で一緒にランタンを飛ばしてくれる女性に「たまたま」出会わないといけない。
その設定が、「たまたま」入った日本の地方都市のネットカフェの女性店員が、主人公が作ったゲームを「たまたま」プレイしていて、さっき知り合ったばかりのジミーを車で長岡から60km以上先の津南まで車で連れて行ってくれた上に、一緒にランタンを揚げてくれるということに映画の中ではなっている。
そんな確率は天文学的に低いと思うが、長岡と津南(それと小出)の位置関係が分からなければ、このシーンは意外と違和感なく見られてしまう。
台湾のランタン祭も津南のランタン祭も非常に美しく撮れているから、なんとなく騙されてしまっているような気がしないでもないが、そのくらいランタン祭のシーンは美しく、印象的だ。
なお、津南のランタン祭は、東日本大震災後の2012年に始まったらしい。
 

■只見の雪

映画の中で主人公は津南のランタン祭に行った後に、旅の目的地であり、初恋の相手の生まれ故郷である只見を訪れるのだが、主人公が訪れた只見は雪がとても少ない。
実際の津南のランタン祭が行われるのは3月上旬で、その頃の只見なら少なくとも積雪が1メートルはある。
あまり積雪が多すぎると、画的に映えないと思ったからなのか、ロケ日程の都合なのかは不明だが、この雪の少なさからするとは3月上旬はありえない。
 
主人公は、只見町に立ち寄った後、初恋の相手から送られてきた絵はがきに写っていた只見線第一橋梁(所在地は只見町ではなく三島町)を電車で渡っていたので、只見線で会津若松に向かったらしい。
その後、東京に戻って桜を見ている。
東京で桜が見られるのは早くとも3月下旬。
そういえば、映画の冒頭で、主人公が日本の取引先から桜を見ていかないかと誘われているので、季節は3月下旬から4月上旬の設定と思われるが、そうすると本来は津南でランタンは揚げられないことになるが、映画の中の津南のランタン祭はその時期に行われることになっているのだろう。
そうすれば、只見の雪の少なさも、降雪の少ない年であれば、まあ何とか辻褄が合う。
と思って調べたら、やはり只見ロケは3月の下旬に行われたそうだ(ロケが行われた年は降雪が少なかった)。
 
そんな細かい突っ込みはさておき、雪の残る長野、新潟、福島の風景はとても美しい。
亜熱帯に近く雪の降らない台南の風景とは対照的で、このあたりの描写だけでもロードムービーとしての価値はある。
 

■対比の映画

この映画は、いろいろな点で対比が生かされていると感じている。
まず、主人公の過去と現在、タイトルの18×2を行き来しながら、構成されている。
この切り替えが頻繁すぎたり、どちらのシーンなのか分かりづらかったりすると、ストーリーが追いづらく、うるさい印象を与えかねないが、うまく切り替えられていて、分かりやすくかつ自然な印象を受ける。
過去と現在は対照的で、過去はポシティブ、現在はネガティブな基調で描かれている。
ベッドで目覚めるシーンが18歳のジミーと36歳のジミーの両方で描かれているが、未来ある高校生の18歳のジミーは下手(画面左)に配置されているのに対し、過去に留まったままの36歳のジミーは上手(画面右)に配置されている、というのは指摘されて初めて気づいた。
 
過去と現在で描かれている舞台もまた対照的だ。
台湾の古都である大都市台南は、日本統治時代の建物も残るレトロで懐かしい光景が中心となっている。
季節も夏、開放的で明るい。
一方、現在、特に主人公のジミーが過去の記憶をたどる日本の旅では、季節は早春、まだ雪の残る長野、新潟、福島が中心だ。
ローカル線が走る自然豊かな田舎の光景が描かれている。
特に、日本の旅の目的地であるアミの故郷、只見は特に雪と自然が強調されているように思う。
過去の台南の描写は全体的に明るい色、特にオレンジ色が使われているシーンが多いなと思ったら、監督が意図的にそういう画作りをしていたようだ。
主人公が着ているTシャツやカラオケ店の制服の色がそうだし、作品のキーとなっている主人公二人が電車に乗ってランタン祭に向かうシーンは、オールドレンズで撮った写真のように、柔らかくソフトなフォーカスで色味も黄色というかオレンジがかっている。
暖色系で描かれている台南とは対照的に、現在の日本での旅は白とブルーグレーを基調とした寒色系。
主人公の服の色も冬服ということもあって暗い色味になっている。
映像は現代的なシャープでエッジがたった印象だ。
 
物語のキーとなるランタン祭のランタンの色だが、台湾のランタンは色温度の低い赤っぽいオレンジ色で描かれているが、これは実際のランタンの色に近い。
それに対して、津南のランタンの色は色温度の高い白っぽい色になっている。
実際の津南のランタン祭でのランタンの色は台湾のランタンに近い赤みがかった色である。
それをあえて白っぽい色にしているのは、色の対照を意識しているのは間違いないだろう。
映画公開後に映画の撮影メイキング映像が公開されたが、その中に津南のランタン祭りのメイキング映像もあった。
津南のランタンの色も実際は台湾のランタンと同様、実際はオレンジっぽい色だった。
ランタン祭りのシーンは、現在と過去のシーンが割と細かく切り替えられているので、どちらのランタンか画面上で分かりやすくする意図があって、津南のランタンの色は白っぽく編集されているようだ。
さらに、撮影に使ったカメラのレンズも台湾と日本で使い分けられていて、台湾での撮影には古いレンズ、日本での撮影には新しいレンズが使われているとのことだった。
撮影に使うレンズの使い分けまで行って、台湾と日本のシーンの対比にこだわっていているとはちょっと驚きだった。
 

■匂いと記憶

主人公のジミーがアミの故郷へ旅をするきっかけになったのは、失意のうちに帰った自分の故郷台南で、実家の自分の部屋で見つけたアミからの絵はがき。
日本に戻ったアミから送られた絵はがきには、只見線で最も有名だと思われる第一橋梁を渡る車両を写した写真が写っている。
その絵はがきに染みこんだ香水の香りに18歳の夏の出来事を思い出すというシーンが映画の最初の方にある。
 
この香水は、アミが台南にいるときにつけていた香水はニナリッチの「レールデュタン」という設定なのだが、アミを演じていたときに清原果耶が実際にこの香水をつけていたらしい。
「レールデュタン」はフランス語で「時の流れ」という意味なので、その名前の意味からこの香水が採用されたと思うのだが、1948年に登場した香水でニナリッチを代表する名香とのこと。
18年前とはいえ、22歳の女性がつけるには不釣り合いなちょっとクラシックな香りらしい。
この香水については、おばあちゃんがこの香水をつけていたので、おばあちゃんを思い出す「懐かしい」香りという感想もあるほどで、映画の中でもアミが祖母からもらったという設定になっている。
 
それはともかく、この絵はがきはアミが日本に戻ってからジミーに宛てて送ったものだから、そこにアミの実家の住所も書いてあって、ジミーはアミの実家のある只見に行く気になったことのようだ。
この絵はがきが送られてきてから既に10年以上経過しているはずで、送るときにはがきに香水を振りかけたとしても(アミはそういうことやりそうな茶目っ気のあるキャラクターとして描かれている)、ジミーが蓋付きの金属の箱(お菓子の箱っぽい)に大事にしまっておいたとしても、10年以上経過したはがきに香水の香りが残っているだろうかという疑問はさておき、匂いが記憶と密接に結びついているという話は聞いたことがある。
 
主人公が初恋の人の故郷へ行くきっかけとしては、絵はがきだけで十分な説得力があると思うのだが、あえて香水のエピソードを入れたのは、この映画は、記憶をたどる映画であり、映画が最も観客に訴求できない感覚が嗅覚だからかもしれない。
 
ミスチルの主題歌
実は、この映画の主題歌をMr.Childrenが歌っていること自体知らないで映画を見に行った。
タイトルバックでミスチルの歌が流れてきたときはかなり驚いた。
歌の歌詞が作品のストーリーに沿ったというか、映画のストーリーそのものだったので、さらに驚いた。
この歌の歌詞は、この映画のシーンをもう一度思い起こさせる内容で、映画の主題歌として素晴らしい。
この作品のタイトルバックは文字のみ。
観客自身が今見たばかりの映画のシーンを思い起こすことで、この映画の余韻に深く浸れる。
 
映画を見た後で知ったことだが、監督がダメ元でMr.Childrenに主題歌をオーダーしたら、脚本を読んだ桜井和寿が主題歌のデモを先に作ってしまい、ミスチルによる主題歌制作が決定する前にこの映画のプロデューサーがこのデモをミスチル事務所の関係者から聴かされたということだ。
主題歌を引き受けてくれるとは思わずに呼ばれて行ったら、ミスチル事務所のスタッフから「うちの桜井が映画主題歌のデモを作ってしまいまして」と言われて、この曲を聴かされたら、そりゃプロデューサー泣くわな。
 
ミスチルの主題歌を聴きながら思い出したのは、この映画の中で2人がミスチルの歌を聴くシーン。
突然日本へ帰ると言い出したアミを連れてジミーが電車に乗ってランタン祭へ向かうシーンだ。
ベンチシートに並んで座っているジミーがイヤホンを差し出して、一緒にミスチルの歌を聴く。
有線イヤホンを2人でシェアして聴くという、ザ・青春の一コマそのもののシーンだ。
映画のポスターにも使われているこの映画を象徴するシーンだが、改めてこのシーンを思い返してみると、イヤホンを2人でシェアしているはずなのに、それほど2人の距離は近くない。
それぞれ前を向いており、視線は合っていない。
ミスチルの歌を聴いているのだが、曲名は明かされず、劇中ではミスチルの歌は流れない。
何の曲を聴いているのか非常に想像をかき立てられるのだが、ここで聴けなかったミスチルの歌は、タイトルバックであの主題歌が流れる。
このシーンでミスチルの別の歌が流れていたら、タイトルバックの主題歌はここまで効果的ではなかっただろう。
 
余韻が強く残る映画
映画を見てよかったと思っても、映画館から一歩外に出れば、たちまちその余韻が消えてしまうことがほとんどだ。
せいぜいその日のうちだけで、一晩寝ればその印象はすっかり薄れてしまう。
この映画は違った。
ずっと余韻に浸り続けていて、いろいろと深掘りをしたくなる。
そんなことは映画では初めてだろうか。
角田光代の小説「八日目の蝉」を読んだ時に、この小説を原作とした映画とテレビドラマを見たが、それ以来だ。
まずは、劇中にも登場した映画「Love Letter」を見てみるか。

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