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「青春18×2-君へと続く道-」レビュー(その4)~カタルシスと「記憶の旅人」~

■ジミーのカタルシス

アミの真意を知ってジミーはどう感じたのか。
 
恋愛映画と聞いていたが、確かに恋愛の側面はあるものの、恋愛は始まっていないし、結果的にはジミーの一方的な片想いに終わる。
アミは、ジミーのことを憎からず思っていたのは間違いないが、台南を離れる時もジミーに対して恋愛感情を持っていたとまでは言えないだろう。
台南での旅は楽しいけれど、永久に続けることはできない旅。
ジミーたちはみんなやさしく、台南での時間が長くなればなるほど「情」が移って、別れがたくなる。
アミは、愛情とも友情ともいえない、人としての「情」をジミーに感じていたと思う。
 
アミは、病床で死の間際まで台南での出来事を絵にしていた。
ジミーに「会いたい」と思っていたのは本心だろう。
アミにとって、台南でのジミーたちとの思い出は、かけがえのないものであった。
(アミにとって、台湾旅行が初めてのバックパッカー旅行で、次はブラジルに行きたいと思いながら、病状が悪くなり結局行けないまま亡くなってしまったから、台湾の旅行が唯一の「自分が自分であることを確かめる」旅になってしまったことをアミの絵日記を読む直前にアミの母親からジミーは聞かされている。)
そして、アミにとって、ジミーはアミ自身の命が終焉を迎えようとしているときに「会いたい」と思う人、かけがえのない大切な人だった。
職をも失ったジミーにとっては、18歳の夏にアミと過ごした短い日々は黄金の思い出であった。
脚のケガで熱心に打ち込んでいたバスケットボールも出来なくなり、将来の展望もこれといってなく、ただなんとなく過ごしていた高校生のジミーにとって、アミと交わした「約束」は、ジミーが自分の未来を切り開いていく灯火になっている。
恋愛という点では、自分の一方的な片想いということも感じていたジミー。
それが、アミの死後に、アミにとってもジミーはかけがえのない大切な人だったと、ジミーが知ることになる。
「切ない」という言葉の語源は、「切なし」、つまり大切に思うということだ。
この映画の物語は、ジミーとアミがお互いに大切に想い合っているという意味で、文字どおり「切ない」物語だ。
 
ミスチルの主題歌の最後にこうある。
 
 風を切る列車の窓から外を見てる
 その景色の中に見つけたんだ
 君が僕に残した希望のサイン
 
 さよなら 果たせずにいる僕らの約束
 君の想いを 切ない願いを
 ずっと手放さずに 抱きしめて生きよう
 どうしてあの時行かせてしまったの
 柔らかな後悔が今日も僕に寄り添ってる
 暗闇に浮かぶ光のような想いを追って
 
あの時ジミーがアミを引き留めていたとしても、何も変わらなかっただろう。
それが分かっていても、「もし、あの時に・・・」と考えてしまう「柔らかな後悔」。
アミの生まれ故郷を訪ねて初めて知ったアミの真意。
アミにとってジミーは大切な人だった。また会いたかった。
また会いたかったからあの時ジミーと離れて、日本へ帰った。
それが分かっただけで、失意のジミーの行き先を照らす光、「希望のサイン」になるだろう。 

■いろいろな視点で思い入れができる作品

自分が見に行った上映回は比較的年齢層が高かったが、映画の途中からすすり泣く声が聞こえていた。
自分も悲しくはなかったが、切なすぎて涙が出てきて止めるのに苦労した。
ミスチルの主題歌が流れたエンドロールが終わった後も、みんななかなか立ち上がろうとしない。
久しぶりに余韻に浸れる映画を見た。
この年になってこの映画を見て、素直に「いい映画を見た」と言える自分でよかったとも思っている。
 
この映画に関しては、難病系で主人公が死んでしまう映画が最近多すぎて、食傷気味というレビューも多かった。
実は、自分もこの映画を見るまではそんなふうに思っていて、中島みゆき絡みで映画の「糸」を見ようと思ったのだが、予告編と最初の10分見たら、お腹いっぱいになって見るのをやめてしまったことがある。
ただ、自分はあまり映画を見ないせいか、主人公が死んでしまう設定自体にそれほど拒否感はないのだが(ありきたりだとは感じたが)、その設定が出てきただけで、それ以降の映画の内容を一切受けつけないほど激しい拒否感を持っている人がこれほど多いのかと驚いた。
 
この映画は、単なる難病系のドラマで主人の恋人的な人が死んでしまうだけのドラマではない。
そのことにばかり目が行ってしまう人には、ありきたりのお涙頂戴の恋愛映画に見えてしまうかもしれない。
亜熱帯の開放的な雰囲気で、アジア的な人情に触れながら、これこそ青春というシーンが展開される青春映画としての側面も楽しんだ人も多いだろう。
18歳と36歳のジミーを演じ分けた33歳のシュー・グァンファンだが、彼が演じた18歳のジミーは、その仕草、表情は純朴な高校生そのもので、ここに萌えた女性ファンも多いようだ。
もちろんロードムービーとしても優れている。
台南の暖色系の風景と日本の雪景色の対比、鈍行列車の車窓からの風景、本当に美しく撮れていて、旅に行きたくなったというレビューも多かった。
 
自分の場合は、ジミーがアミに出会って「約束」を交わしてからの18年の方に思い入れが強い。
ジミーの青春は、アミへの初恋と自分で立ち上げたゲーム会社、その両方を失ってアミの故郷へ向かう旅は、ジミーの青春に自ら終止符を打つための旅だった。
ジミーのこの後の人生はもはや青春ではない。
 
日本から帰国して台南に戻ったジミーは、現在は不動産屋に勤めているらしい高校時代の悪友から勧められた新しい仕事場になるだろう物件を決める。
大学時代から18年間住んでいた台北から、生まれ故郷で、アミと出会った台南に戻ってきた。
自分が心血を注いできた仕事を失ったこと、そしてアミの死ということは変えようがない。
それを受け止めて、その先をぼんやりと見つめるジミーの姿で終わるところに、救いと仄かな希望を見いだすことができる。
 
ジミーが、アミと出会ったカラオケ店に行くシーンが印象的だった。
とっくに閉店していて、建物もすっかり寂れているが、アミがカラオケ店の壁に描いた絵は、色褪せてボロボロになっているものの、アミのサインは確認できる。
あの日、ここにアミが生きていた痕跡を18年後も確認することができた。
先に進むために過去を遡り、自分自身と向きあう旅の最後にふさわしいシーンだ。
 
後悔がない人はいない。
あの時こうしていればどうだったかと考えない人もいないだろう。
あの時のこうしていても結果は変わらなかったのかもしれないと思える、それを受け入れられるようになった時に、その人の青春は終わるのかもしれない。
青春が終わっても人生は続く。青春が終わった後は余生ではない。
それを知っている大人にこそ響く映画かもしれない。

■分かりやすさと余白

この作品の評価は、概ね高い。
その中で、難解さがなく分かりやすいが、説明しすぎでもっと余白を残した方がいいという意見が少なくない。
映画をよく見ている方にそういう感想を持つ人が多いようだ。
 
そんなに説明されなくても分かるよ、くどい、やりすぎだ
もう少し映画を見ている方を信用して、自由に感じたり、考えさせたりしてくれよ。
そういった感じだ。
 
確かに説明過多だが、現在のデジタルシネマコンテンツの状況を考えたらこういう説明過多の映画になってしまうのではないかと言っていた映画関係者もいた。
タイパの時代、興味範囲が世代で全然かみ合わない時代、ヒットするのは、アニメーション映画にとどまらず、実写映画においても多くの人に知られているマンガ原作の映画ばかりで、非マンガ原作の題材であれば、まず見る前に興味を持ってもらって映画館に来てもらわないと始まらないらしい。
最大公約数的にさまざま要素を詰め込めこんで、なるべく多くの人のどこかに引っかかるようにしないと見てもらえないのだろう。
藤井道人という監督の場合、特に描写が丁寧なので、分かりやすい、感情移入しやすいという評価の裏返しだと思う。
 
この映画のレビューの中で、このシーンでジミーに嘘までついて、自分の病気を隠し続けたアミが理解できないという女性のコメントを見かけた。
かなり丁寧にアミの心情は描写されているし、最後のアミ視点の描写で分かりやすく種明かしをしているのにもかわらず、ジミーに対してなぜアミが自分の病気を隠し続けたかその理由が理解できないと感じている人がいるとは思わなかった。
多くの人の目に触れる以上、どういう見られ方、捉えられ方をするか本当に分からないものだ。
難しすぎればそもそも理解されないし、分かりやすすぎると白けさせてしまう。
 
映画もエンターテインメント、興行であり、見てくれる人がいないと成り立たない。
映画の場合は特にお金がかかるから、興行的に失敗続きだと、次の映画を撮らせてもらえなくなる。
多くの人の興味、趣向に訴えながらも、自分の表現したいことをいかに盛り込むか。
そのバランスに優れているから、藤井道人という監督は新作の予定が引きも切らない人気監督なのだろう。
 
説明過多といえばそうかもしれないが、ベタな要素とそうでない部分とのバランスがよく、2時間テレビドラマ的なチープさ、陳腐さは、映像もストーリーにも全く感じられない。
原作を基にしながらも、よく練られた脚本に、美しい映像、映画としての満足感を十分得られる作品だと思う。
個人的には、一回見れば十分という感じはなく、むしろこの感想を書きながら、この映画をもう一度見たい欲求と戦っている。
自分としては本当に珍しい。
ディスクが出たなら多分買っちゃうな。

■映画の主題歌としての「記憶の旅人」

Mr.Childrenの書き下ろしの映画主題歌「記憶の旅人」、これがミスチルファンから評判がよろしくない。
原因ははっきりしており、音楽的にミスチルとしての新規性があまり感じられない(逆にいうと王道ミスチル節)にもかかわらず、(映画を見ていないと)歌詞の内容がわかりにくく、共感できないということに集約されるだろう。
 
脚本段階で主題歌が先にできていて、しかも、その歌詞が映画のそのまんま。
映画の主題歌としては最高だが、映画を見ていないと「?」になる可能性は高い。
一般的には映画などの主題歌は、そのエッセンスを抽出しながらも、作品を見ないで曲単体で聞いても成立するように作成されるのが一般的だ。
映画の主題歌は、あくまで主題歌であって、映画の付属物ではないからだ。
(もちろん映画のための書き下ろしとは限らない。)
しかし、映画のタイトルバックで使われた「記憶の旅人」は、完全に映画の一部になってしまっている。
映画の終盤でジミーとアミのそれぞれでトリックの種明かしがあるから、観客はもう一度この映画を振り返りたくなっているところへ、映画の本編では聴けなかったミスチルのこの主題歌を歌詞付きで流す。
観客は、映像のない黒いタイトルバックを見ながら、否応なしにこの映画のシーンを自分の脳裏で再生して、また涙。
客観的にみるとあざとすぎる演出なのだが、この歌詞があってこそなせる演出で、映画の演出としては抜群の効果。
観客の感情は監督の掌で転がされているのだが、嫌な感じは全くしないところが憎いところ。
 
作詞をした桜井さんもここまで映画の内容により沿った主題歌は作ったことはないと思う。
歌詞が原作そのものというのは、YOASOBIの「アイドル」の例があるが、あれもアニメが決定する前に、ayaseが原作マンガに感激してその勢いのまま作ったデモ音源が先にあり、その後にアニメ主題歌の話が来て、デモ音源がほぼそのまま主題歌として採用されたという経緯がある。
そう考えると、原作か脚本かという違いこそあれ、主題歌の作者がもっと客観的に咀嚼することなく、原作・脚本から受けたインパクトをそのまま形にしたという点で共通するものがある。
映画公開時の桜井さんのコメントに
「この映画に関わる上で、不純なものは取り除いて音楽として抽出したつもりです。」
とあるが、ミスチルの桜井和寿ではなく、映画のジミーに成り切り、ジミーの感情だけを純粋に「抽出して」歌を作ったということになるのだろう。
余程この脚本が現在の桜井さんに響いたということなのだろうが、そのこと自体が興味深くはある。
 
先日ミスチルの全国ツアーのプレライブがあったらしい。
「記憶の旅人」もライブで演奏したようだが、そのMCで「映画見ましたか?」という話をしていて、桜井さん自身は自分の声で泣けるか検証するため、劇場に「青春18×2」を見に行ったということだ。
検証の結果は、冗談めかしながらも「泣きました」と言っていたらしい。
桜井さんは試写でこの映画を見ているはずだが、わざわざ劇場に見に行くとは、やはりこの映画は桜井さんにとっても特別だったのかなと思わせるエピソードだ。
この話を聞いて、映画を見に行ったミスチルのファンがどんな感想を持つかということにも興味がある。

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