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京阪でスピッツを聴くと、電車を降りてしまう私

言わずと知れたスピッツ、聞いたことがない人の方が少ないでしょう。
言わずと知れた古都京都、行ったことのない人の方が少ないかもしれません。

皆さんは京都の電車で、もっと言うと、京阪電鉄で、スピッツを聴いたことがあるでしょうか。
私は大抵、それをすると電車を降りてしまう癖がありました。
今日は、その話を懐かしんでしたいと思います。


ーーー私は京都へ、電車で通っていた時があります。
桜の季節や、紅葉の季節、京都はもうそれはもう混みます。
「夏は暑い」「冬は寒い」とほぼ同じです、「行楽シーズンの京都は混む」のです。

それも京阪の駅が位置するような、清水五条や祇園四条・七条・伏見稲荷といえばなおさらでしょう。
しかし、少し離れて、時期さえずらせば、京阪電鉄は一度に、「地域の路線」に顔を変えるのです。

私はいつも「京都」に府外から向かうとき、何かをくぐったような気持ちになります。
阪急電鉄で言うと、それまで外を走っていた電車が、烏丸にかけてトンネルをくぐるとき、そして一瞬ケータイの電波が届かなくなるとき、何かを「くぐった」という気がするのです。

そしてたどり着く、終着、河原町の喧騒。大袈裟ですが、千と千尋に出てくるトンネルをくぐったような、少し「世界線がずれた」ようにも思えなくないのです。

そんな中、その喧騒から京阪で少し外れて、「地域」としての京都を感じるとき、さらにもう1つ「くぐった」ように感じるのです。

これに輪をかけて、スピッツ。
スピッツもまた「くぐる」感覚を、与えてくれるところがありませんでしょうか。

マサムネさんの包容感のある声は、オリジナルな「場」を醸成し、聞き手の目の前の「世界線をずらす」ような効果があるようにも思います。
そしてさらに、”虫” ”神” ”海”といった、遠いはずのものと近いはずのものの混在した出現、メタファーのような、わかりそうでわからない歌詞による脳の困惑、そういったことによって私たちの視点が振られ、無重力状態で宙に解き放たれたような。
そうこうしているうちに、別の世界に「くぐっている」。

今でも好きですが、私は特に平成後期、
「スピッツ」に夢中になっているときがありました。
「京阪電鉄」で「スピッツ」を聴くとき、
私はもしかすると2つ、「くぐって」いたのかもしれません。

そして特に、なぜか私の中で強いパワーを持っていたのが、このフレーズ、

「余計なこととはしすぎるほどいいよ」

(「運命の人」 作詞:草野正宗, 1997年)

これを京阪電鉄で聞くとき、私の胸に浮かぶ考えは大抵、
「最短距離で向かっている場合じゃない」でした。

結果、たった3駅しか移動しない京阪を、たった1駅で途中下車して、
何度も結局歩いていくことにしていました。

急ぎでなくとも、ある程度着きたい時間があって乗っていたはずなので、
そこそこの予定の狂い方はしていたはずなのですが、
決してスピッツと京阪を、私が自分で生んだ予定のズレに言い訳をしようというのではありません(笑)

今思えば、得も言われぬ、たったその30分ほどの歩く道は、
私にとって東京から箱根へ小旅行にでも行ったかのような、満ちる感覚があったのです。

それも、最初っから歩くのでもなく、
一度乗って電車で聞いてから、やっぱり降りて歩く、ここまでで1セット。

あれからもう10年ほど。
あの時川沿いを歩きながら感じていた、あの潤うような、涼しいような感覚は、まぎれもない「幸福」の感覚として、今でも胸の中で、しっかり手触りがあります。

いまは、そんな京都も離れて、高いビルと喧騒にかこまれて、「くぐれない」日々を送る中、たまに思い出したようにスピッツをかけます。

「余計なことはしすぎるほどいいよ」と、
あのころの耽溺に付き合ってくれたスピッツは、今は優しく、疲れた私の心を包んでくれるようです。

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