待合所の二人

会社を出て家に帰るため最終のバスを待っていた。
待合所に人は少ない。隣に、家財道具一式の詰まったバッグを2つ持った、ホームレスと思しき人が居る。知り合いではないがよくここで会うので(おそらく向こうにも)面識がある。
最終が無くなり待合所が閉まるまでの短い時間をいつもここで過ごしているのだろう。
知らない人を観察して回るような趣味はないので、人となりなどはよく分からない。もちろんどういういきさつで今のような暮らしをしているかなど、僕には想像のしようもない。
(極端に言えばホームレスかもしれないというのすら僕の偏見に過ぎない)

ただ思うのは「この人は別に特殊な人ではなく、今はたまたまそうでないだけで自分がこの人と入れ替わっていたとしても何ら不思議はない」ということだ。

この人と自分の違いは何か。多分そんなものは何も無い。人間なんてそうそう違いはないし、あっても大抵の人間の能力の差など、ヒト全体で均してみたら誤差の範囲程度のものでしかない。
違いがあるとすれば能力とか勤勉さとか努力とかそんな個々人のささいな違いなどでは説明しきれない次元の何かである。

僕は2年前に日常からも人生からも大きく転落した。
突然何かに巻き込まれてそうなったわけではない。きっかけと思えるものは確かにあったし、それ自体はおそらく避けようがないものだったように思う。
最初は小さな綻びだった。しかしその存在に気付いていながら繕う事ができなかった。長い時間をかけて綻びは大きくなり、ますます繕う事は難しくなった(繕えなかったのは自分の問題だ)。
やがて自分の「重み」も支えきれなくなり、ついに僕は転落した。

自分の事なので大層に感じるが、僕のような経験をしてる人は世の中には掃いて捨てるほどいる事は僕も知っている。
ある人はなんとか這い上がるが、中には這い上がる勇気を見失ってしまう人もいる。
そして、勇気を出して這い上がろうとしたけど上手くいかない人もいる。
しかしそれだって別に能力だけの問題とは思わない。ある場所で這い上がれなかった人だからといって「全ての場所で」這い上がれないとは思わない。たまたま今回はそういう場所に恵まれなかったというだけの話なのだ。

つまり何が言いたいかと言うと隣にいる人のように僕がならないと言い切れる根拠などないし、今そうなっていないのはあの時たまたま這い上がれるだけの運と縁に恵まれたからに過ぎないからである。

これが,僕が「今はたまたまそうでないだけで、自分がこの人と入れ替わっていたとしても別に不思議では無い」と考える理由だ。
また2年前に転落した時のような「きっかけ」に遭遇するかもしれない。今度は運無く縁無く、転落から這い上がるのに失敗するかもしれない。
そうなれば今度は待合所で時間を潰しているのは僕の方だ。そうならないと、誰が言える?

バスが来た。
とにかく今は今日に感謝し帰宅するため、バスに乗った。

フォロー・サポートして頂けると励みになります。