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47歳で20kg超のダイエットに成功した話(5)

さて、このストーリーもそろそろ締めくくりだろうか。今朝の体重は60.6kg。ちょうど25kg減だ。これ以上はマジやばい。 ダイエットを始めた頃はみんな興味津々だった。「どうやってるの?」と聞かれたり、「がんばってるね」と応援されたり。しかし、どうせ長続きしないだろうとか、そんなには痩せないだろうという予想に反してか、だんだんとアタリが強くなる。「そんなに痩せてどうすんの?」「病気じゃないの?」…全くなんなんだろう。 ちなみに当初の予想に反してこのやり方は停滞するということ

    • 47歳で20kg超のダイエットに成功した話(4)

      さて、前回説明したルールはひとつテーマがある。それは「運動せずにいかに痩せるか」ということだ。 小さい時から運動はずっとやっていた。剣道を続けていたし、マラソンや水泳なんかも平行してやっていた。それが就職したとたんにほとんどやらなくなった。いや、やれなくなった。まぁ、たいていの人はそうだと思うけど私も例外なくそこから体重増加の道を一直線だ。その度に一念発起しては夜にジョギングをはじめたりしたがどうも長続きしない。 考えてみればそんなにいろんなことをうまくこなせるほど要領も

      • 47歳で20kg超のダイエットに成功した話(3)

        前回載せたこのルール。わりと良く考えた末のものであるのだ。 1.仕事する日は夜ご飯は食べない。 これは今回の根本の施策である。ただ制限をつけた。「仕事する日は」ということだ。そう「仕事しない日」は食べても良いのだ。これがあることによりメリハリが持てる。あともう1つ思いある。仕事する日は食べなくても良いのだからその分仕事もしくは何か他のことができるということだ。これは意外と都合が良いのだ。 2.昼ごはんは一品もしくは腹八分目。 夜食べれないとなると昼は無茶をしがちになる

        • 47歳で20kg超のダイエットに成功した話(2)

          さて、そもそもなんでそんな方法をとったのかという話である。夜ごはんは私にとっては生き甲斐であった。夜ごはんを食べるためにその日起き、会社で一生懸命働き、ツマの作ったおいしい夜ごはんを食べて寝る。最高の1日である。そんな夜ごはんをなぜ捨てるに至ったのか…。 前回過去2回ダイエットに成功していると書いた。そう、”成功している”のだ。成功しているなら普通は同じ手段をとる。そうお昼ごはんを抜くのだ。ここ数年、前回の冒頭に載せたイメージのSimpleDietというアプリの記録のある2

        47歳で20kg超のダイエットに成功した話(5)

          47歳で20kg超のダイエットに成功した話

          とりあえず基本情報を書くと、私は身長は180cmの男である。現時点で47年も生きているのでダイエットは何度もやったことがあるし、成功と思う内容も過去2回程ある。その時は68kgを目指し、達成したような気がするが記録がないので定かではない。しかもその後太ったし意味はない。そしてその手段は「お昼ごはんを軽めにする」あるいは「お昼ごはんを抜く」だった。そんな私が今回とった手段は「夜ごはんを抜く」だ。  ↑今回の結果である。2020年の4月末からはじめて10月末現在でちょうど6ヶ月

          47歳で20kg超のダイエットに成功した話

          楽天でTOEIC700点とれやと言われた(6)

          結局、400点台から500点台になるのにだいたい3ヶ月、500点台から600点台になるのにだいたい半年かかった。もう点数アップを甘く見る自分はそこにはいなかった。期限はあと1年。おそらく600点台から700点台になるには1年は必要だろう。あとはもう地道に勉強を続けるしかなかった。 結果として700点台を達成したのは次の年(2011年)の10月30日のテストで715点だった。その間周りの何人もの人が僕を追い越して700点や、800点をとっていった。その度に「今回のテストで

          楽天でTOEIC700点とれやと言われた(6)

          楽天でTOEIC700点とれやと言われた(5)

          次のTOEICの点数は560点だった。5点しか上がってなかった。勉強はわりと継続してできるようになっていたにも関わらず5点しか上がらない。あと足りないのはなんだろう?そう考えた。辿り着いた結論は危機感だった。 2年後に700点超えできなければ給料が下がる…ということだけではまだ2年間あるという余裕につながると思った。こんなにちょっとずつしか点数が上がらないんだから直近の目標を達成していかないと2年後だって目標に辿り着けるわけない、そう考えた。そこで年内(2010年内)に

          楽天でTOEIC700点とれやと言われた(5)

          楽天でTOEIC700点とれやと言われた(4)

          電車中で寝ないためには立っているといいという結論に辿り着いた。しかもつり革につかまってもダメだ。両足を肩幅に開いて電車の動きに合わせて立つのだ。そうするとまず寝ない。それでDSをやる。これで帰りの時間も合わせて2時間確保。 でも、たった2時間じゃ少ない。確実に時間をとれる時間。それはお昼だった。まずはお昼をカロリーメイトだけにした。ダイエットにもなる。一石二鳥だ。これで3時間確保。 1日3時間ならわりと勉強していることになる。次は質だ。とにかくTOEICで点数をとらな

          楽天でTOEIC700点とれやと言われた(4)

          楽天でTOEIC700点とれやと言われた(3)

          次のテストの結果が返ってきた。再び490点だった。わりと勉強したつもりだったのに400点台から脱することすらできない。英語が苦手で大学受験すら英語を回避してきたツケがここに来たと思った。しかし点数を取らないと給料が下がるのだ。給料が下がったら妻にも娘にも大変な思いをさせることになる。僕だったらそんな男とは一緒にはいたくないと思う。離婚だ。人生の破滅だ。マジでそう思った。 よもや英語が人生を狂わすことになるとは…。まだ狂ってもいないのにそう考えた。どうすればいいのか。勉強

          楽天でTOEIC700点とれやと言われた(3)

          楽天でTOEIC700点とれやと言われた(2)

          役員は全員800点以上とれなければクビ。 会社は役員自ら厳しい条件を課し社員を鼓舞した。僕に課された条件は700点だった。それがどれほどのものなのか僕には理解できてなかった。まずはとにかくTOEICを受けることだ。そう思いすぐに申し込んだ。2時間で200問。テストを受けることすら僕には過酷な条件に思えた。 最初のテストの結果が返ってきた。490点。あと、200点とればいいのかと思った。それがどれほど大変なものか理解していなかった僕は油断した。これまで通り毎日勉強しよう

          楽天でTOEIC700点とれやと言われた(2)

          楽天でTOEIC700点とれやと言われた

          あれは2010年の2月ぐらいだったろうか?確かな時期は覚えていないのだが、三木谷さんが朝会で英語の話をしたのだ。 その時僕は海外の楽天市場を開発するグループにいた。もともと楽天に入社した時から海外の仕事がしたいと言っていて、英語は使わねばならないという認識は合ったが、2007年の入社以来英語を使う機会も少なく、それほど困ってはいなかった。 楽天では三木谷さんが口にしたことはだいたい実践される…というのが僕の見解だった。きっとこれから楽天では英語が重要になるだろう。そう

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          SCEでPS1互換エミュレータを開発した(5)

          PS2の発売日は2000年3月4日だった。2000年年明け前後だったろうか、エミュレータはほとんど完成していた。だが、それでもまだ一部動きがおかしくなるタイトルがあった。数タイトルがどうしてもちゃんと動かない。最終的に僕らはそれらをブラックリストとして公表しリリースすることとなった。 その後、アメリカ、ヨーロッパでもPS2が発売された。もちろん海外のPS1タイトルも動く。発売直前にはアメリカ、ヨーロッパを回ってデバッグもした。それが初めての海外だった。 100%ではな

          SCEでPS1互換エミュレータを開発した(5)

          SCEでPS1互換エミュレータを開発した(4)

          1999年3月2日未明、僕は東京国際フォーラムの舞台袖にいた。その日は次世代PlayStation(PS2)の発表の日だった。僕の担当は現行PlayStation(PS1)との互換性があることを発表する時に実機で動くPS1ゲームを実演して見せることだった。 前の晩からスタンバっていたのには理由があった。初めてリッジレーサーが動いてから数ヶ月、GPUエミュレータは格段に進歩していた。たくさんのPS1ゲームが動くようになり、その中でも一番良く動くクラッシュ・バンディクー3を

          SCEでPS1互換エミュレータを開発した(4)

          SCEでPS1互換エミュレータを開発した(3)

          僕達が作ろうとしていたSPUエミュレータは不要のものとなってしまった。しかし、PS2のサウンドプロセッサがなくなるわけではない。先輩と「これからの仕事は何になるんですかね?」「新しいチップのテストベクタでも作るんですかね?」などと話ながら帰ってきた僕に告げられた次の仕事は予想外のものだった。 GPUエミュレータの担当になってくれ。 「え?」という感じだった。GPUエミュレータは別の先輩が担当していた。聞けば、その先輩は会社をお辞めになるというのでその引き継ぎをしろとい

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          SCEでPS1互換エミュレータを開発した(2)

          僕が次世代PlayStation(PS2)のチームに配属されて言い渡された仕事は現行PlayStation(PS1)のゲームをPS2の上でも動かすというものだった。 その頃は新しいゲーム機が出ると古いゲーム機のゲームはその上では動かないというのが普通だった。そんな中SCEではPS2でPS1のゲームも動かしちゃおうというのだ。それはとても画期的なことだと思った。そして、入社して数年目にそんな仕事に関われることがとても嬉しかった。 PS2にはPS1のメインプロセッサがI/

          SCEでPS1互換エミュレータを開発した(2)

          SCEでPS1互換エミュレータを開発した

          僕がSCEに入社したのは1996年。新卒社員の2期生としてだった。その頃のSCE開発部は50人くらいだったかな?久夛良木さんが部長で一番下っ端が僕達だ。 僕が入社した頃はちょうどスクウェアがPS陣営に参加表明した直後くらいだったと思う。発売前後のFF7のムービーを見せてもらう機会があったんだけど、エアリスが…のシーンを見させられて衝撃だったのを覚えている。 入社して最初のお仕事はコンバーターを作る仕事だったと思う。なんかムービーにフィルタをかける奴。それがお仕事として

          SCEでPS1互換エミュレータを開発した