読書記録 / 村上春樹、稲越功一『使いみちのない風景』
わたしは旅行が好きだけど、苦手でもある。時間をかけて移動して、非日常に身を置くのは好きだ。けれど、旅行中もずっと、必ず戻らなければならない現実を思って淋しく、切なくなる。そんなようでは心から旅行を楽しめているとは言えないだろう。目の前のことに100%集中する、というのができない。旅行で英気を養うというのも上手く行った試しがない。気持ちを切り替えて現実に向き合うというのも難しい。非日常に心を置いてきてしまうので現実に復帰するのは一苦労だ。そして心の底から楽しんでいるとは言い難いのでリフレッシュもできない。中途半端にしか旅行を満喫できないことが悔しい。
つまり、わたしにとって旅行とは、現実から離れ、非現実に束の間浸かる免罪符のようなものである。そして、わたしは不器用なせいで、変に現実主義なせいで、許されたという感覚を味わえないでいる。
村上春樹は自らの趣味を言い表すとすれば、「旅行」というよりはむしろ、「住み移り」、つまり「定期的な引越し」だと感じている(22)。前者は「通り過ぎることを前提として」(28)いるのに対し、後者は定着する可能性を含んでいる。そして、著者は「定着するべき場所を求めて放浪している」のだという(17)。
そうか、旅行とは通り過ぎるものなのにずっとここに逃げたいと願うからもの悲しさを感じていたのか、と合点がいった。でも、旅行するなら現実から逃げ切らなければならない。一方、住み移りには現実的責任が伴う。わたしは旅行をしながら住み移ろうとしていたのか、そしてそのどちらも出来ていなかったのか。
旅行の目的は自分のための風景を見つけること。それはそこでしか見ることのできない風景である。わたしたちはそのような風景を必要としており、それらはわたしたちを根本的に惹きつける。(104)
使いみちのない風景は、それ自体に使いみちがなくても別の何かの風景、精神の奥底にじっと潜んでいる原初的な風景に、結びついている。そしてそれらの風景はわたしたちの意識を押し広げ、拡大し、意識の深層にあるものを覚醒させ、揺り動かそうとする。現実的な有用性を欠いていたとしても、わたしたちの意識にしっかりとしがみついて離れない。(96)
意味のない時間があってもいい。全てに意味や効能を求めてはいけない。結果、教訓、特定の感情をもたらさなくても、ただ事実を事実として受け止めるだけでいい。アクションを起こさなくても、関わりを持とうとしなくても、ただ眺めているだけでいい。物語が始まらなくてもいい。ぽっかり浮いた風景でいい。そんな風に肯定されているような気持ちになる言葉だった。
いつかそんな使いみちのない風景を見つけたいし、誰かの風景の一部になれたらそんなに素敵なことはないなと思った。