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主人が誰か見失いそうになっている。

母と犬しかいない実家にはWi-Fiがない。

Wi-Fi環境でやっていたことを普通に4Gでやっていたらトキロックの方は選択しているプランから与えられたギガを瞬殺で使い果たし、低速モードに。僕の方はと言えば、ソフトバンクのプランに自分のギガ使用量に対するベストマッチプランがなかったことで料金が高いなと思いつつも世の中が5Gに移行していく過程でもう少し安いプランが出てくるはずだと素人予想し放置してきた功績がここに認められ、余りギガの繰越により何とか事なきを得ている。
その功績によりもたらされた恩恵を貪るかの如くトキロックもこのnoteの投稿やら、SNSを中心としたネット事は全て僕のスマートフォンを介して行うという事態に発展し、僕のスマートフォンは夫婦間を反復横跳び的往来で歴史的繁忙期を迎えた上、前代未聞級のログインログアウトを繰り返されているおかげで主人が誰か見失いそうになっている。

一応、ノートも持ってきているのだが、自分が普段やっていることでローカルで出来ることのあまりの少なさに改めて自分もネット社会の住人だったんだなと認識させられる。

飛び入り参加してくるあれこれや、否が応でも触れてしまう情報に触れる度、衝き動かされてしまう事も多くそれはそれで肯定すべき事であるが ”今、何とかしなければ”  や ”こんな時こそ動かねば”と同じくらい、今の世界の状況を鑑みると、”何もせず粛々と淡々と日々を過ごす”ということも大事ではないか?と自分に問いかける。

生まれた時から、何かすることを前提に作られた世界であった。

その構図は今も変わらず、また自分が生きてるうちには変わる術を持てるようにも思えない。

が、何もしない人、何も出来ない人が存在することで世の中のバランスが保たれていることは理解しておかなければならない。
それは例えるならば、学校で文化祭があるとして、張り切る人がいて、立場上張り切らなければいけない人がいて、その張り切る人たちに影響受ける人がいて、利害関係を重んじる人がいて、一つの行事としてフラットに取り組む人がいて、それら(特に張り切ってる人達)を疎ましく思う人がいて、我関せずな人がいて、参加したくても出来ない人がいることで文化祭が成り立っており、その構図はありとあらゆる社会や組織、コミュニティーにも多かれ少なかれ見受けられる構図であり、その人間社会の成り立ちの美しさをを理解しておくことに近い感覚でもある。と例えてみたもののそれがどんな感覚かは残念なことに僕にもわからない。わかる人いたら一報頂きたいくらいだ。

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そんな鈍めの脳内考察はさておき、僕自身は呼吸以外の”何も”していない状態の維持を心がけてはいる。
しかしまだ何かしらの横槍が入った時にそれを無視出来るまでには至っておらず、無力を保つことの難しさを痛感し、何もしない時間の貴重さを思い知らされた挙句、こうやってnoteに記事を投稿している自分の言動の矛盾に苦笑いしながら、刻々と迫るトキロックのギガ復活の日と父が安らかに眠れる日を待っている。

GD

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