判定への遺恨よりも絶望へのケアを〜高梨沙羅選手本人にしかわからないこと
北京冬季五輪で疑惑の高梨沙羅選手のスキージャンプ団体での失格判定に日本中が怒りと同情が入り交じった感嘆の声が挙がっている。
高梨沙羅選手の涙にもらい泣きしたのは、私だけではないだろう。
「謝らないで」というツイートも4万と励ましの声もネットで話題になっている。
今回の一件については、審査員やレギュレーションのジャッジの問題が多く取り上げられるが、それよりも選手本人へのケアが必要だろう。
なんせワールドカップでも金を取ったスキージャンプの天才が、北京冬季オリンピックで、無冠でしかも失格まで取られ、団体ということでチーム全体の責任論まで背負ってしまえば、それはどこから手をつければ良いかわからない。
悔しさもあるだろうし、絶望もあるだろう、後悔もあるだろうし、不完全燃焼感や、本人の自尊心を傷つけられた現実の結果もあるだろうし、ジャッジへの恨みもあるだろうし、そりゃあもう大変だ。
天才故の苦悩と後悔と絶望なのだろう。
しかし、天才が故の苦しみなのだ。
選手本人も周囲の期待も感じたろうし、本人への本人の期待もあったがそれを裏切られたと感じたかもしれない。
どんなに心理学的な考察を外野がしようとこの苦しみは本人にしかわからず、またその苦痛は我々の想像を絶するものだろう。
ただ、最後の最後のどん底に落ちたときはいつでもゼロベースで最初からはじめればよいのだ。
若い選手だし、次のステージは次のオリンピックだろうが、ほかの選択肢だろうが、どれを選ぼうと無限の可能性がある。
メダルなんて飾りだ。
人々を感動させたそれ自体に観客は満足しているし、感動させてもらった同選手の挑戦それ自体に金メダルを送りたい。
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