あさぼらけ

フェードアウトしていた意識の中に、雨の音がクロスフェードしてくる。
夜半にはまだしとしとと優しく降っていたものが、今は川面と屋根に激しく打ち付けている。

耳栓をするのを忘れてしまった、と思った。
まだ朝方の4時くらいだろうか、薄い生地のアイマスク越しにも光は感じられない。
寒いのに何故かはだけている掛ふとん、何故か目隠し状態でも迷いなく掴めた。

カモメが鳴くような近所の犬の声がする。
目覚まし時計よりも、毎朝私は彼の声を頼りにしている節があった。
そのせいか、最近は犬のことが多少好きになりつつある。
7時半にセットしていたアラームを切って、起き上がった。雨は止んでいる。
古い畳の上に素足を乗せると、しっとりとたわみ、築53年のアパートらしい音を立てた。
今度こそ朝が来た、と肌で感じる。

仕事に向かう前に、近所のカフェに寄ろうと思っていた。
週に2度、午前中だけしか空いていないというなんとも妙ちきりんな店なのだが、気まぐれに一度立ち寄って以来、すっかりファンになってしまったのだった。

家の横を流れる小さな川のほとり、私の住むアパートとは反対側にそのカフェはあった。
近くに見えているが、橋までが遠いばかりに、実際歩くとなかなかの距離になってしまうのが難だ。
ぬかるんだ道を丁寧に泥溜まりを避けて向かうと、重い木製のドアが優しく待っているのが見えた。
冬の空気が伝導した鉄製のノブを掴み、いやあ寒い寒いと声を上げながら店へと足を踏み入れる。
今日は大寒波だそうですよ、と若い店主。
昨日は雪だって話もあったもんな、違ったけど、と常連の親父の声が飛ぶ。
店内はとても暖かい。

茶系の家具で揃えられた落ち着いた色調の店内は、ともすれば薄暗いとも感じるだろうが、朝しか開いていないその店においてはその懸念は無用であった。
大きな窓からは、まだ灰色の雲が多い今朝でも、しっかりと光が差し込んでいた。
あの親父のように「いつもの」なんて言えたら良かったのだが、案外とメニューが多い店で、毎度違うものを頼んでしまう。

そのことを店主も知って、今日は冬の限定メニューはどうですか、と勧めてきた。
じゃあそれで、と聞いて厨房へ引っ込んだのをみて、私はその窓の横の席に腰を下ろした。

窓から見えるアパートの自分の部屋を眺めていると、いい香りが立ち込めてくる。今日は紅茶か。
「スパイスが効いたのもお嫌いじゃなかったですよね」
「ええ」
「ああ良かった。いや、お出しする前にちゃんと確認しろって話なんですけどね」と早口に店主は言ってテーブルにポットとカップを並べる。
ステイン加工の天板に、金と青の装飾の入った白磁のティーセットが置かれる。
つややかな器にゆっくりとお茶を注ぎいれると、甘い匂いが広がった。
それを逃さないようにと吸い込み、続いてずず、とすする。
スパイスの独特な辛みと、ベリーのような風味が口に広がる。
「ホットワイン風のフルーツティーです」
なるほど。ワインという単語を聞いて、ありもしないアルコールの香りがただよった。
果物の優しい甘さが、まだ起きたばかりの体に沁み込み、私の血液がやっと目覚めたような心地がする。

じっくりと飲み終えたころには親父はいつの間にかおらず、私は店主と微笑みあい店を出た。

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