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3年の呪い

志邑です。

今週から、曜日ごとにテーマを設けてみることにします。
月曜日はエッセイ・日記の日です。
つまり、いつもどおり。

さて。

なんでも3年続けてみろ、っていうじゃないですか。

とりあえず3年。
特に、新卒で入社して、あーつらい、しんどい、やめたい、って。

そういう時に、自分より年上の大人たちは、だいたいそう言う。

わたしは、前の職も、その前の職も2年で辞めてます。

それがだめってことなのか?
と、なんか否定された気になる。
根性がないのかな、と自分でも卑屈になる。

実際、人より根性がないのは本当だけどね。笑

根性論、みたいなのはきらいです。
なんでも根性でなんとかなる、なんてことは、ちがうとおもうし。
努力している人は、それだけでえらい。
けれど、努力しているからえらい、と言って、結果につながらない「頑張っているフリ」をしちゃうのは、やっぱりちがうとおもうわけです。

わたしは、そういう言い訳をして、頑張っていなくて、けれどムダなこともしてないし、生きているからいいや、みたいになっていた。
だから根性がないな、と。

そういう曲がった根性は、前のレポートで書いた通り、いなフリを経て、地に足がついた努力と、前向きな休息に時間を使えるまともな根性になったわけだけど。

なんでもやってみないと出来ない、のは分かるし、もう1年やったら、もしかしたら出来るかもしれない、そういうことはいっぱいあるかも。

でも、それはひとりで出来ることでやればいいと思った。

ひとりで出来ることは、自分しか自分を律してくれないから、だから「3年」みたいな期限を設けてもいいかなと。

でも会社は、やりたい仕事だけじゃなくて、関わる人や、社風や、色んなものがからみあうから。
本当にやりたいことの、本質を、やるために、場所や環境を変えることは、間違いじゃない。とおもう。

それは、自分が転職1回目の時に、転職してよかったって、本当におもえたから、いまになって言えることかもしれない。

いま、言えてよかった。とおもうから、やっぱり間違っていないとおもう。

3年は、目安だよね。

目安って、辞書で引いたら「おおよその基準」って出てきた。
世界標準は3年かもしれないけど、自分は自分で、ひとにはそれぞれの標準がきっとあって。

わたし、趣味も2年前後がピークなことが多くて、わたしの標準は2年なんだとおもった。
逆に、その自分の基準はちゃんと守らないと、ただダラダラしちゃう。
そこは、根性、みせないといけない、そんな目安。

そこを乗り越えられたら、たぶんもう年月とか関係なく、ずっと勝手に自然と続いて、空気みたいになるはずだし。

空気だから、なくなると死んじゃうんだよね、そこまできたら。

わたしにとって空気が「書くこと」だったって気付いた2月、だったなあ。

書かないと死んじゃう、書きはじめたらそれはそれで死にそうなんだけど。

……と、推しが言ってて、それだ!って思った。わたしも、死にそうになりながらも、死なないために書いている。

志邑でした。


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