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好き、じゃないけど、

志邑と書いて、シムラです。
土偶は好きです。

最近、中学生のころの話をする機会がちょいちょいありました。
まあ相手だいたい同居人ですけども。

別に中学時代をテーマに話しているわけじゃなくて、話の流れで避けられず、中学の頃の話をしているんですが、
およそ15年前という事実に、おののいています。

そんな前のこと覚えてられる自分も、ちょっとこわいですね。

色々な思い出(主に、あんまり楽しくないもの)があるんですけど。
そのなかでいちばん、引きずっているものを。

たぶん2年生のときだった。
みんなきっと嫌いな、三者面談。わたしも、きらいでした。

だって、友だちあんまりいないことも、宿題やってないことも、バレるじゃないですか。

友だちいないことは別に、うっすらバレているので良かったんですけど。

でも、その数少ない友人とケンカしてしまった直後だったんですよね。
ケンカというか、一方的に、わたしがキレたんだけど。
(このケンカもまた、別の機会で書くことにします)

とにかくその時点で、友人がひとり減った状態で、三者面談があったんですよね。

先生も心配してるわけ。
それで「ほら〇〇さん(別のクラスメイト)とかも、たまに話しているけど、仲良いんじゃないの?」などと。

〇〇さんは、元々部活が一緒だったんで(これも色々あって辞めたのでいずれ書けよう)、友だちではないが、知り合いぐらいの。
まあクラスメイトはみんな顔見知りですけどね。

まあ、話しかけてくれるレベルの知り合いではありましたが、友だちではありません。
なので、「仲悪くはないです」と。
質問が「〇〇さんのことは好き?」とかで「嫌いではないです」と答えたような気もする。

悪くはない、嫌いではない。

そう答えたことを帰り道、母に咎められました。
「別に嫌いじゃないなら『好きです』でいいじゃない」

え、なんで?
好きではないので。
だって、必要な事項くらいしか喋ってない、世間話をしょっちゅうするわけでも、一緒に遊びに出かけるわけでもない。

その人のことよく知らないし。
でも、ネクラにも普通に話しかけてくれるし、部活すぐやめたのに変わらず接してくれるし「悪い人じゃない」し「嫌いではない」。

嫌いじゃなかったら、好きじゃなきゃいけないのかな。
そのとき、お母さんが何を言ってるのか全然わからなくて、私の嫌いじゃないが伝わらなくて、それがなんか、無性に悲しかったことをずっと覚えている。

だからこそ、言葉のニュアンスとか、もっともっと気をつけるようになった。
正確に伝えたい、というのが強くなった。

その結果、ことば、のことばかり考える人が完成したのかもしれない。

母は、おそらく喋り口がさらに回りくどくなって面倒だと思っていたでしょう。

いま思えば「三者面談なんだから、とりあえず『仲良いです!』って言っといたらええねん!」ということだったように思います。
社会人になってみて、正確に伝えるより、とりあえず穏便に済ませるために「嘘ではない」ことをいう、を覚えて、分かった。

「嘘ではない」で躱してばかりでは、それはそれで、よくないですけど。
何ごともTPOだよね。

とはいえ、結局は正直に正面突破して、ぶつかりがちなわたしです。
どっちの方が後々の関係においていいか考えるとね、言ってしまった方がいいなって。
言い方、伝え方は考えるけど、「嘘ではない」じゃなくて、正直に。
考えても、話がこじれるときはこじれるけどね。

社会を生き抜く処世術、伝え方、ニュアンス、語彙力、まだまだ足りないと思う。経験値。

でもそんな愚直な自分も、口八丁が上手い自分も嫌いじゃない。
いつか、好きになりたいよね。

志邑でした。Salut.


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