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因果連鎖は存在するか

 因果連鎖は存在するか。因果連鎖が存在するとすれば、一切の自由意志が否定される。自由意志が否定されれば、運命論的に物事が決めつけられ、主体にかかるあらゆる責任に懐疑がもたれる(法的な責任の定義は別である)。古典力学は実際、未来予知を一大目標に掲げたわけだが、しかし、不完全に終わった。しかも、ミクロ系では量子力学の台頭により確率論的解釈が主たるものとなった。因果連鎖の思想はこの時点で実質破綻したわけだが、それでも生物学では、現象の因果連鎖の解明が主たる目標であるし、よほどミクロでなければわずかな乱れはあるにしても、中々崩れないのだろう。(しかし、そのノイズがどこまで系に影響を及ぼすかは、その系によって違いがあるだろう)それに、確率論的解釈が成立したとしても、特定の分布パターンとなる原因(これもまた特定の分布パターン、ここから想定される作用)があるとすれば、これは因果連鎖の復活に繋がるのではないか。今までは物質の作用→物質の作用→・・・という流れだったのが、特定の確率論的配列→特定の確率論的配列(これはウィトゲンシュタインっぽい)(モノからコトへ)という考えへ移行すれば因果連鎖は別の解釈で復興したことになる。実際、不思議なのはミクロにおいて確率論的世界観が成立しているというのに、意識や自我は1通りしか存在しないことである。この唯一性は存在自体として驚くべきものである。もし、確率論的配列そのものが次の確率論的配列に依存しないのならば、我々の世界はいくらでも多重になり得るし、第一数々の法則が崩れるのではないか。

 さて、問題は、因果連鎖の否定の理由が、我々の観測限界によるものなのか、それとも観測能力(主観、客観図式は保つ)が極限に高まってもやはり否定されるものなのか、このへんが曖昧な気がしてならない。そもそも、科学は因果律そのものの解明を根拠としているのではないか。だとすれば、物体同士には因果が存在するという前提(つまり、物体同士には知覚されなくとも自動的な因果が存在するという前提)の眼鏡を掛けて世界を眺めているから世界がそう見えるのではないか、という反論にはどう応えるのだろうか。この反論には、そもそも科学が実在論(すなわち物自体)を前提としており、その実在論を否定し難く(もし否定すれば観念論に陥るから)、実在論のもとでは物自体同士から発生する現象の相互作用が背後にあり、その自動性が保証されているから、と答えざるをえないのではないか。物自体を根拠として想定して科学が動いている為に、その正しさの根拠はわずかに霧に隠れる。

 もし、ここで経験論的実在論を根拠として科学の正しさを証明しようとすると、物自体と認識の主従関係をあべこべに捉えるせいで、混乱がもたらされる。科学の理論が、まず根底として想定された(超越論的に想定された)物自体から生じた現象の経験の積み重ねから帰納的に生じて、その後、メカニズムという尤もらしい説明から相互作用的に個々の理論が強固に根拠づけられるというのに、経験論的実在論は、経験の積み重ねから実在論と因果関係を想定し、最終的に現象と物自体の主従が逆転するに至る。つまり、現象の反復性から逆に物自体が想定されるのである。こうなると、そもそも最初に想定すべき因果関係の自動性の根拠が失われる為(逆に反復性が物自体のぼんやりとした根拠として利用される為)に、帰納法による理論の正しさが弱められ、(つまり、物自体が定まっていない為に、認識された因果関係の根拠を失う→何度実験が成功してもその偶然性だけが強調される)結果として科学によって解明された理論の土台が瞬く間に崩れてしまうのである。(物自体を想定しないと、例えば、今日まで毎日朝日が昇っても、明日朝日が昇るとは限らないという、あの論法が使えるようになる。どれだけ実験が成功しても、それは特定の確率で偶然起こり得ることだから、次回の実験はその夥しい成功とは独立に考えなくてはならないから、もしその実験を行ったとしても、その現象が起こるとは限らないという論調が生じることになり(その部分が大きく強調されることとなり)、あらゆる実験結果の普遍性に嫌疑の目が向けられる。そして、嫌疑の末にあらゆる科学の知識が崩壊するのである。結局、物自体を超越論的に想定して初めて科学が成立するのである。ここが科学の拠り所でもあり、科学(科学者)が無根拠に信仰する神でもあり、沈黙する対象であろう。実際、物自体についてや物自体そのものの実在性は語り得ないから、逆にここに言語的な嫌疑の眼差しを向けられると科学者は閉口せざるを得ない。(このとき、上述したように経験論的実在論を用いて物自体と認識の主従関係を逆転してあべこべにするのは、科学者が科学の正しさを証明するための常套手段になり得る。)

 さて、因果連鎖は存在するかと言うと、そもそも、超越論的実在論が想定されて初めて成立するものであり、加えて超越論的実在論を想定したとして、確率論的配列→確率論的配列という、コトの時系列的関係を根拠として初めて成立するものであると言わざるを得ない。だから、因果連鎖や因果律の存在を考える場合は、それらが物自体に対する信仰と隣り合わせであることは念頭に置くべきかもしれない。

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