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人が希求するのはあくまで絶対的な倫理や価値である

 科学が台頭する現代、人の持つ倫理観や価値観を、より論理的にもしくは科学的に追求しようという試みがある。特に、ビジネスマンは人々が普遍的に(統計的に)何を希求するか、何が価値を持つのか、をその職業柄、気にしやすい。また、生物学者は行動神経生物学から、実質的に人を遺伝子ビークルとみなして、人が普遍的に(統計的に)何に対して価値を見出すのか、また、ヒトの現代の倫理観はどうして、このように発展したのかを説明しようと試みる。しかし、思うに人が希求するのはこのような論理から導かれる相対的かつ普遍的な(統計的な)価値ではなく、絶対的な価値、絶対的な倫理ではないか。なぜなら相対的価値観はパラメーターの重みづけでいくらでも変わるからである。つまり、万人に共通の『普遍的な価値、普遍的な倫理』はないのではないか、ということである。実際、荘子の言葉に以下のようなものがある。

原文:『齧欠、王倪に問いて曰わく、子は物の同じく是とする所を知るかと。曰く、我いずくんぞこれを知らんと。ー(中略)ー毛嬙・麗姫は人の美とする所なるも、魚はこれを見れば深く入り、鳥はこれを見れば高く飛び、糜鹿はこれを見れば決してはしる。四者孰れか天下の正色を知らん。我よりこれを観れば、仁義の端・是非の塗は、樊然として殽乱す。吾れいずくんぞ能くその弁を知らん。』
訳:『齧欠が王倪にたずねた、「先生は全ての存在が等しく善として認めるような(絶対的な価値を持つ)ものをご存知でしょうか。」王倪は答えた、「わしに、どうしてそれが分かろうか。」ー(中略)ー毛嬙・麗姫は、人は誰もが美人だと考えるが、魚はそれを見ると水底深くもぐりこみ、鳥はそれを見ると空高く飛び上がり、鹿はそれを見ると飛び上がって逃げ出す。この四類の中でどれが世界中の本当の美を知っていることになるのか。わしの目から見ると、(世間での)仁義のあり方や善し悪しの道筋は、雑然と混乱している。その区別をわきまえることが、どうしてわしにできようか。』

 上述の文章からは、普遍的に組み上げようとする『美』や『倫理』『価値』は容易に崩れ去るから、普遍的な美はなく、まして相対的な美というのを希求することもまたそもそも馬鹿馬鹿しいということが理解できるのである。なぜなら、パラメーター(上述で言うところの、人、魚、鳥、鹿)を変えれば、『美』というものは如何様にも変化しうるからだ。相対的に語られる『美』はもはや何者でもないのである。ないものを追いかけてもしょうがないのである。もちろん、『美』を人間固有の概念と押さえて、パラメーターを『人』に押さえて、その形を希求することは朧げなからできるかもしれない。しかし、それもまた『美』の傾向を捉えるに過ぎない。この探求は、行動生物学で勃興しそうであり、例えば、いくつかの『美しいとされる』絵画を見たときに数あるニューロンのうち、常に発火する類のニューロンを『美的感性に関わるニューロン』として定義づけ、美をニューロンから定義づけることも可能だろう。しかし、そもそも、美しいか否かが個人の感性に関わるものとも言え、その個人の感ずるところは振る舞いや言語によっては完璧に表現できず、(つまりその絵が美しいかどうかさえ、物理量みたいには容易に定義づけられないため)定量化はおろか定性的な議論さえナンセンスであり、美とニューロンの関係づけはあやふやなままとなる。では逆に、そもそも快楽系にまつわるこのニューロンが発火したから、この絵は美しい、というように関連づけても、定義が循環し、さらに快楽系と『美』という単調な関連付けにしかなり得ないので、意味をなさなくなる。兎にも角にもこうして浮上した生理現象による美の説明の試みは、たとえ『美』の傾向はどうにか説明できても、『美』そのものを語ることはできない。相対的に美を捉えることもまた雲をつかむような話なのである。

 さて、相対的かつ普遍的に語られる『美』は存在しないし、それを語ることもまた不可能であることが理解できたが、これは『美』だけに当てはまらない。『倫理』『神』『価値』といった人が日常で生の原動力としている諸々の根源的な概念にも、敷衍することができるのである。この先に何があるかといえば、茫漠とした大地がただ広がるだけである。これは、よし人の目を覚ますことにはなるにしても、人を生かす訳では決してない。この先に何を見るべきか、何をすべきかという生の実践に甚だ欠けるといえよう。では、ここで唯一否定できていないのは何であろうか。それは、『個人』の『美』である。逆に、ここまで限定することでようやく、『美』は絶対性を確保するのである。(いや、絶対性なき美はそもそも美ではないのかもしれない。美というものには、何か絶対性を想起させる響きが組み込まれているように私には思える。)

 我々は、ここに来てようやく個人を取り戻すのである。それは、『美の決定者』が『私』であるという歓喜による。しかし、勘違いしてはならないのは、『美』も『倫理』も『神』も私が決定することであると言うのは、そこに重みが生じると言うことである。それは、半端な重みではない。なにせ、私はまた、貴方の絶対性をも尊重しなくてならないからである。

 我々は、自身の絶対性を了解しつつ、他者と接しなければならない、と言うことである。それが絶対性の重みである。『美』の絶対性を見出したのなら、私はそこに不断の覚悟を持たなければならない。そこには、他者との永遠の隔絶、永遠の孤独が生じていることを理解しなければならない。依然、私の眼前には、上述した誰もいない茫漠とした大地が広がっているのである。しかるに、是に於て『美』はようやく私にその大地を踏みしめる勇気を与えてくれるのである。それは独善的な『美』『価値』『神』ではなく、荒波に揉まれ苦しんだ末に初めて生じた『私』固有のものと化して。それは、論理的には語り得ないし、もはや私の手さえ離れているのかもしれない。ゆえに私は沈黙せざるを得ない。

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