行いがわたしを導く
「行いがわたしを導く時間」の命名について。
一回だけでも報恩講の考えはよしとして、じゃあ今回始めようと
している講座の根本テーマは何なのか?
当初なかなかそれは浮かびませんでした。
で、ある日住職とあーだこーだと議論していたら、
うちの柴犬まめおくんが散歩散歩うんち行きたいというので、
わたしは「こういう時は散歩した方が思いつくから行こう」
と思って散歩に出発。そのまま考えながら散歩しました。
出かける前には、
「”わたし”と”行い”を見つめなおす時間」という言葉を
提案していましたが、住職がまだ違う、
というのでその辺りをヒントにてくてく散歩。
そうしたら、そんなに歩かないうちに、ふと
「”行い”がわたしを導く」んだと思ったのです。
「行いがわたしを導く時間」を一回だけでの報恩講の講座に
設定してはどうかと。
突然ですが、詩を読みます。
まめおくん
まめおはうんちをしたくないとき
あまり散歩にいきたがらない
まめおはうんちをしたくなるとき
とても散歩にいきたがる
お念仏はしたくなってするものか
しろといわれてするものか
はたまたもよおすものなのか
さるべき業縁のもよおせば
いかなふるまいもすべし(歎異抄)
であるなら
しかるべき行いをととのわさば
お念仏へと導かれる
byながのあや
ではないの?と。
業縁がもよおすの「もよおす」というところ
好きなのです。。。
いつのまにかどういうことをしうるかわからない身を生きているのが私たち。生きる事が自分の身体を使わずともある程度回ってしまうのが現代の生活です。
そんな行いや作法や生活もぐっちゃぐちゃの
大混乱になっているなかで突然
「さあ念仏しましょう」では
初めて触れる方には敷居が高い…
だから今必要なのは行いをきちっとしていくことかもしれません。
今、行いの整理ができていないから。
土井先生の「一汁一菜でよいという提案」や、こんまりさんの「ときめく片づけの方法」などの反響も、情報過多や大量消費などが起こしている物事の根本にあるものの喪失が、元にあるのではないかと思います。
「行いがわたしを導く時間」ではまず念仏を声に出して言ってみる。
そんな基本的なことから始めていきます。
3年は続ける予定なので、内容もまた変容すると思います。とりあえず今年は仏事に関することが中心です。いずれ自分達で味噌作りなんかもあるといいのではと考えています。
そういう行いがいずれ「わたし」を仏道に導くかもしれない。
そこが始まればもう歩んだ方はたくさんおられるので大丈夫と思います。
今後お寺の坊守【BM】を盛り上げるための資金にいたします。